投稿者: SIGEN

「新しい生活様式」が始まり、ローカルバンドマンが選んだスタイルは、戦前ブルースマンと呼ばれる人達の様式美。およそ100年前に確立された音楽は、現在の状況さえも癒してくれるのではと研究中。

Ain’t Nobody’s Business / ベッシー・スミス

 ベッシー・スミスの半生を描いたTV映画を見た。映像も美しく、1920年代頃の衣装もとても良かった。何よりもブルースを楽しめた。しかし途中で何度か胸が苦しくなってしまい、休憩を入れながらの鑑賞だった。彼女の生涯についてはバイセクシャルだったことや、乗車中の車が事故に見舞われてしまい、黒人であるがために病院をたらい回しにされて亡くなった話なども知っていたから、ある程度の悲劇的な部分は覚悟していた。映画の中では貧しかった幼少の頃から、彼女の破天荒な部分、人種差別も当然のように描かれている。しかしミゾオチの部分が重苦しく痛むような感覚を得たのはそういった場面からではなかった。複雑な人間関係が交差する中でのやるせない気持ち、行き場のない想いに、本当に自分が体験したかのように身体が反応してしまったのだ。

 ベッシー・スミスは1894年4月15日に生まれ、1937年9月26日に43歳でこの世を去った。その間に多くのブルースを吹き込み巡業し歌った。彼女は彼女と同じ人種の救済者であり代弁者だった。強烈に強い酒を好み、プライドをかけてケンカも躊躇しなかった。男とのセックス、女との情事、家族との確執、彼女の人生はいつも危ういものだった。師匠的存在のマ・レイニーからは自分自身のことを歌わずに「お客を知ることだ」と、エンターテイナーとしてあるべき姿を教えられていたのだが、ベッシー・スミスは彼女自身に降りかかってきたブルースを最期まで歌ったのだ。

 いつしかブルースの女王とまで呼ばれた彼女の代表曲に「Ain’t Nobody’s Business」という曲がある。1923年にピアノだけを頼りに淡々と歌われている。後の1949年にジミー・ウィザースプーンがカバーしR&Bチャート1位を獲得。そこからブルースのスタンダードとなり、他にも多くのアーティストにカバーされていく。ただしベッシー・スミスが歌うバージョンは「いちいち批判されたってかまやしない」「どう言われてもしたいことをするわ」と腹をくくったフレーズを歌うヴァース部分があり、その後で本編のコーラスを繰り返していく。それにしてもこんなブルースの歌詞を見つけると、次のロック世代へ繋がる架け橋が既に架けられていたことに驚いてしまう。

 労働歌から生まれたブルースは、メッセージソングと言うよりも個人的な憂いを歌ったものだ。自分や周りを奮い立たせようとしているよりも、トラブルを笑いに置き換えたりして何とかやり過ごそうとしている。悩み、苦しみ、不満、怯え、それらの落ち込みを一瞬だけでも忘れたかったのだ。いつの日か不自由さの無い時代はやって来るのだろうか。残念ながらベッシーと同じく自分が生きている間にはやって来そうにない。その代わりに理不尽なこと、許せないこと、やるせない気持ちはまたやって来るだろう。そしてその度にミゾオチは痛くなるなのだろう。それでも好きにやることを諦めないでいたらそれでいい。

 ところで今の若い世代はどんな歌詞の歌を聞いているのだろう。真っ先に思い浮かぶのは高校生の息子が気持ち良さそうに歌っているアニメソングだ。最初は笑いをこらえながら聞いていたりもしたが、最近はそうかと感心することも少なくない。さらには香港の民主活動家、周庭さんが欅坂46の「不協和音」を拘置所内で思い浮かべてたとのニュースも流れてきた。「Ain’t Nobody’s Business」の「私の勝手よ」と「不協和音」の「抵抗と自由を」の間には隔たりもあるだろう。それでもどちらも周りに対して屈していないところは一緒だ。そこにある悩みや苦しみを抱えて生きる人の為のブルースは、今もこうして流れ続けている。

Shine On Harvest Moon / レオン・レッドボーン

 「100年前の世界からやってきた」とも称される米国ルーツ音楽博士のレオン・レッドボーン。パナマ帽に古めかしいスーツ、そしてサングラスに口髭と、トボケた田舎紳士風の男はコメディアンにも見えてくる。歌声だってボソボソとしていて頑張る気配はまったくなし。ライブ中のジョークだって本当にウケているのかさえ怪しく映る。しかしながら、彼の弾き語りは実にロマンチックでありセクシーだ。

 残念なことに、自身については多くを語らずに亡くなってしまったレッドボーンは今でも謎の多い人物だ。なんとなく分かってきた事は、1949年生まれで、70年代中頃からカナダのトロントのナイトクラブやフェスティバルで唄い始めたということ。戦前のニューオルリンズあたりからタイムスリップしてきたかのように現れ、鼻歌のような弾き語りで大昔のアメリカ民謡、ジャズ、カントリー、ブルーズなど、1910年代から20年代あたりの音楽を再生しまくったこと。そのまま時が止まっているかのような演奏でTV番組にまで出演してしまい、人気者にまで登りつめたことなどだ。

 この「世界一無名な有名音楽家」は、写真の出来映え次第ではお洒落なフランス人のおじさまにも見ないこともないのだが、酒を片手に舞台袖から登場したまま呑気に飲み始めてしまったり、演奏したかと思えば途中で止めてしまったりと、やはり心は戦前のブルースマンたちのようだ。それでも彼の演奏は癖になる。それはまるで子どもの頃に夢中になったTVアニメのように、ニヤニヤと身体にへばりつくのだ。アルバムの方も1975年の「オン・ザ・トラックス」から始まり、その後も多くのアルバムを出している。結構な頻度でリンゴ・スターやドクター・ジョンなど、レジェンドなゲストたちを迎えながら、すべて同じように戦前のオールドタイムな曲を当たり前のように演奏し、これまた当たり前のように昇華させている。先に結論を述べてしまえば、凄腕のスナイパーなのだ。

 それにしてもだ、彼をここまで虜にさせた当時の音楽には何が宿っていたのだろう。ここからは完全に個人的な妄想なのだが、まずレッドボーンは、職人気質を持ち合わせた科学者タイプの人物だったのではないだろうか。単純にギターが上手くなりたいから始まり、音楽をもっと知りたいって気持ちのまま掘り下げていくうちに、ついにはルーツ・ミュージックへと辿り着いたと思えてしまうのだ。

 1977年のセカンドアルバム「Double Time」ではとても古いジャズ・ナンバー「Shine On Harvest Moon」を取り上げている。この曲はローレル&ハーディーが歌うように、トーキー映画が良く似合う曲なのだが、レッドボーンのそれを聴くと、こちらの方が正しい取り扱いだと思えてしまう程に耳に馴染んでくる。ここまでのアレンジを完成させるためには相当の時間を浪費してきたはずに違いない。ま、本人にしてみれば、ムダな時間を費やしてきたなどとは微塵も思っていないかもしれないけれど。とにもかくにも知りたかったのだと思う。自分が好きになった音楽、ブルースやジャズのことを。そしてその法則を解析して自由になりたかったのではないだろうか。

 何かを上手くなるってことは、自由を得ることとも言える。そしてブルースやジャズは、その枠組みさえも通り抜けようとする気構えも許容している音楽だ。何が正しいとかダメだとか言うよりも、チャンレジしてみること、正直になること、そして何よりもカッコつけたい瞬間までも受け入れてくれる懐がブラックホールのように存在している。単純に古い音楽を好きになったから始まったかもしれないレッドボーンの探求の旅は、いつしか最先端の研究の旅へと移り変わっていったのではないだろうか。それも「勝たなくてはならない」と、重い足かせを付けられたアスリートのようではなく、飄々と散歩する呑気なおじさんのまま突き進んでいったのだと想像したい。汗と涙の後にも解き放たれる空間はやってくるものだけれど、身の丈に合ったまま育つ生き方の方が長く続けられそうに思う。そして旅の途中で出会う人から「なんかそれいいね」と声を掛けられたら最高だ。レッドボーンの鼻歌のように。

 *日本語参考 川畑文子 / 三日月娘

Tomorrow Night / ロニー・ジョンソン

 随分と長いこと技術職で喰いつないできた。振り返りたくはないのだが、時折ふとした瞬間に思い出すことがある。それは残念なことに恥ずかしい事件の数々だ。もちろん手前味噌ながら、素晴らしい出来栄えの仕事もしてきたつもりだ。それなのに思い返す多くの出来事は失敗と苦悩の方が実に多い。ホントにやれやれなのだ。どの分野でもプロと呼ばれる人たちは自分の技術と引き換えに報酬を得るのだが、どんなに高額のギャランティだとしても、それを安いと思わせる程の腕まえを持つ人物は限られる。自分もそうありたいと願ってはいるが、いつかその時が訪れてくれるのだろうか。せめて今は報酬以上のことはできるように準備だけはしておこう。後悔のないように。

 さて、およそ100年前のプロ中のプロと言えばロニー・ジョンソンだ。アメリカン・ミュージックを語る上で欠かせない原点の一人であるからでだけではなく、1925年から1970年に亡くなるまでの45年間に相当の数のレコーディングをこなしている。ブルース、ジャズ、ラグタイムにフォークに、ポップスと、様々なテイストを取り込んだギタースタイルは、音楽的にもテクニック的にも当時の最先端の音楽だ。さらには洗練された華麗なギターフレーズに甘いボーカルと、リスナーを心地よくさせるエンターテイメント性まで持っていたのだ。売れっ子にならないはずがない。

 1894年、音楽一家に生まれたロニーは、幼少の頃からギターやヴァイオリンに親しんでいた。『僕は正規の教育は一切受けていないんだけど、全てのことは親父から学んだよ。日常の読み書きも、音楽のことも』全てのことは親父から学んだというだけあって、10代後半には父親のストリングバンドに入ってバンケットやウェディングパーティで演奏していた。まさにミュージシャンズ・ミュージシャンになる運命だったようだ。

 しかし1919年、巡業先の英国から帰国後、ロニーと年上の兄ジェームスを残して、家族全員がインフルエンザで亡くなるという悲劇に見舞われている。現代のコロナ禍との類似が指摘されるスペイン風邪だ。当時のパンディミックは、第一次世界大戦の中でアメリカ軍の欧州派遣によって世界中にばら撒かれることになったのだが、コロナ騒動の発端にしてもウィルス戦争という噂話も出ている。とにもかくにも戦争はダメだな。

 さて、その後ロニーは兄とデュオを組み、米国各地を放浪しながら音楽で生活していた。1925年には結婚もし、妻メアリーとも音楽の行動を共にしながらブルースコンテストで優勝し、オーケーレコードでのレコーディングのチャンスを掴んでいる。驚くことに1932年までに130曲をレコーディングしたと言われている。ま、その頃のブルースは歌詞を少し変えただけとかで、同じような曲も多かったとは思うが、当時の環境で130曲というのはものすごい。どれだけ人気と実力を兼ね備えていたのだろう。ベッシー・スミスとのツアーや、ルイ・アームストロングとの共演。さらにはデューク・エリントンとも共演していることから分かるように、凄腕のギタリストとして人気があったロニーのスタイルは、単弦奏法でアドリブ・メロディを弾くというスタイル。コードでバッキングをすることが多かったギターに、メロディをのせたアドリブソロを展開したというわけである。まさにその後のジャズ・ギターの先駆けとなるものであったというわけだ。

 ところで、彼の音楽はブルースとジャズを行き来していたと形容されているが、それらを噛み砕いたスウィートなポップス曲も忘れてはならない。1948年にリリースした「Tomorrow Night」ではチャートの1位にもなっている。しかも7週連続ナンバーワンという大ヒットだった。演奏を聴いてみると、時折早いパッセジーも魅せてくれるが、「Playing With The Strings」での曲芸の域に達するギターフレーズなどから比べると、甘ったるいお菓子のようでもある。実際にキングレコード会社の重役達も、なよなよしたセンチメンタルな歌詞にも反対で、売れそうにないと判断していたらしい。しかし大衆は違った。白人でさえも飛びついたのだ。音楽に限らずに『いいもの』『ココロ震えるもの』にはシンプルな旋律が宿っているものが多い。テクニックだけでは感動を呼び起こせないということなのだろう。

 晩年のロニーはミュージックシーンから姿を消していたのだが、61歳の時にブルースとジャズが交差する名盤「Blues And Ballads」で復活している。これ程の癒しはないのではと思えるほど勇気づけられ、また最近よく聞いているのだが、ブルースとジャズを繋いできた彼だからこそ成せた技は、脈々と受け継がれてきた豊饒なアメリカンミュージックだ。ロバート・ジョンソン、T.ボ-ン・ウォーカー、B.B.キングといったブルーズマンだけでなく、チャ-リ-・クリスチャンやジャンゴ・ラインハルトといったジャズ・ギタリストにも影響を与えた偉大なギター・マスターが行き着いた場所は、余韻という静寂な場所だったのかもしれない。

 誰もが後悔のない人生を送りたいと願っていることだろう。人生最後の夜は何を想うのだろうか。死から生還した人に出会ったことがないからアンケート調査はできないが、ロニーが行き着いた余韻のように終えられたらと答える人は多いのかもしれない。さてさて、最後がいつになるか分からないが、その余韻を迎えるには、まだまだしんどいこともやり過ごしていくしかないようだ。ブルースはまだまだ止まらない。