投稿者: SIGEN

「新しい生活様式」が始まり、ローカルバンドマンが選んだスタイルは、戦前ブルースマンと呼ばれる人達の様式美。およそ100年前に確立された音楽は、現在の状況さえも癒してくれるのではと研究中。

Feels Like Rain / バディ・ガイ

 「昔は良かった」「あの頃が懐かしい」などと言い出し始めると、ただの年寄りになってしまった証拠でもある。古い家具のように時を重ねたアーティストたちに憧れていたはずではあったが、最近は朝から「疲れた」を連発してしまっている。それならば荒療治でヴィンテージ・ギターでも手に入れ、また元気に暮らそうかという妄想にも耽ってみたが、それもすぐさま覚めてしまった。毎月のやりくりに苦しむ姿がリアルに浮かび上がったからだ。やはり衝動に逆らわずに生きれたあの頃が懐かしい。

 ところで、最近はまたエレキ・ギターでのブルースを聴きいっている。とくにストラトのフロント・ピックアップを使ったサウンドからは、ノスタルジックな風景までも見えてくるようでたまらない。ブルースのギタリストに限らず、このストラトというギターが多くのアーティストに支持されるには、そんな理由も含まれているはずだ。そして、そのストラトをブルースに持ち込んだレジェンドがバディ・ガイだ。

 1936年生まれのバディ・ガイは、マディ・ウォーターズのバックに起用されるなどして、シカゴのブルース・シーンから飛び出してきた。破天荒なギターと、テンションの高い情熱的なヴォーカルをトレードマークにして人気を獲得していくのだ。70年代には来日も果たし、そのエネルッギッシュなブルースに衝撃を与えられたと語り繋がれている。しかしその後は、多くのブルースマンがそうだったように、彼もまた不遇の80年代を迎えてしまう。それでも90年代に入ると、シルヴァートーンと契約を結び「Damn Right, I’ve Got the Blues」を発表。このアルバムはグラミー賞となり見事に返り咲いた。以来、レコーディングもツアーも活発に行なっている。さらに現在はシカゴに大きなブルース・クラブを持っていて、85歳を過ぎても現役で活躍し続けているのだから「凄い」と言うよりも「素晴らしいです」と敬意を払いたい気持ちでいっぱいになってくる。

 さて、彼のギター・プレイは、ジミ・ヘンドリックス、エリック・クラプトン、スティーヴィー・レイ・ヴォーンらの世代に大きな影響を及ぼしたのだが、その次の世代にも影響を放っているようだ。新世代のブルース・ギタリストとも呼ばれているジョン・メイヤーは、スティーヴィー・レイ・ヴォーンに憧れブルースに夢中になっていったのだが、そのルーツであるバディ・ガイまでにも辿り着いてくれている。共演を果たしたステージでは「Feels Like Rain」を演奏し、見事なバッキングを披露してくれている。特筆したいのは、演奏の途中でバディ・ガイが歌詞を飛ばしてしまったシーンについてだ。次にどう入ろうかと悩んでいたようにも見えるバディ・ガイに対して、ジョン・メイヤーによるフォローは素晴らしく、そこからのギターによる掛け合いでも、ほのぼのとした雰囲気で偉大なるレジェンドを盛り上げてくれている。

 憧れというものは、自分に無いものを追いかけてしまっていることが多いと思うのだが、大好きなおじいちゃんと演奏しているようなジョン・メイヤーを見ていると、そのままでも素敵に歳を重ねていけそうな気分になれる。もしかしたらバディ・ガイもそうやってブルースを奏でてきたのかもしれない。そう思えてくると、今あるモノや環境もまた素敵に見えてくるから不思議なもなのだ。

Hey Hey Daddy Blues / ブラインド・ブレイク

 コロナが世界的大流行という中では、スポーツ状況も酷いものだったが、今年は少しづつ改善されオリンピックも開催されている。開催されることに関しては、両手を上げて賛成していたわけではなかったが、選手たちが躍動している姿には元気を頂いている。さらに今年のMLBには、世界中の憂鬱を吹き飛ばし続けてくれている大谷翔平選手が映し出されている。その活躍ぶりはベーブ・ルースを引き合いに出されるほど沸騰中だ。そのルースが二刀流として活躍していたのは1918年前後のこと。およそ100年前の話だが、当時はさらにスペイン風邪の大流行もあった時代でもある。今の大谷選手の活躍と、ルースの姿が重なって見えてくるのは不思議なことでもないのかもしれない。

 さて、そのベーブ・ルースと同じ時代に活躍したラグ・タイム・ギターの王様がブラインド・ブレイクである。その演奏は暖かでリラックスしたユーモアなものだったが、弾き語りでもカントリー調のような野暮ったさはまったく無く、ピアノのようにギターを操る男として名をあげていくのであった。

 しかしブラインド・ブレイクについては、長い間その背景が謎に包まれていた。写真もたった一枚しか残っておらず、頼りになるのはブレイクの少し後に活躍したタンパ・レッドや、ロニー・ジョンソンらの証言によるものと、残された音源だけであったからだ。それでも2011年になると、ようやく死亡証明書も見つかり生死の状況も分かってきた。50年以上もの間、出身はフロリダで、本名はアーサー・フェルプスとされ、最後は車に轢かれて死亡したとか、強盗に殺されたなどと伝わっていたのだが、それらすべては間違いであり、生まれは1896年、ヴァージニナ州。本名はアーサー・ブレイク。やがて肺炎となり38才という若さで死亡している。

 さて、時は1926年、戦前ブルースマンの代表格であるブラインド・レモン・ジェファーソンが吹き込んだブルースが評判となり、その大当たりに味をしめたレコード会社のスカウトたちは他にも売れそうなブルースマンを探そうと飛び回っていた。そこで発見され、次に売り出されたのがブラインド・ブレイクというわけだ。ソロ歌手として売り出される前には、他の歌い手のバックを務めていたこともあって、伴奏としてのギター演奏がとにかく優れていた。レオラ・B・ウィルソンの「Dying Blues」などを聴けばすぐに理解できるはずだ。そのサイドマンとしての経験があったからなのか、弾き語りで歌うようになってもリズムに狂いはなく、それどころかラグ調のダンス・チューンを信じられなく速いテンポで繰り広げている。しかも彼は盲目なのだ。最初にソロとして売り出された「West Coast Blues」は100年前の演奏だとはとても思えない。ピアノの左手のブン、チャという動きをギターで真似しようとしていたということだが、そのアイデアを発展させ、既にリズムに対してアクセントを巧みに使い始めている。

 次に彼の曲をコピーしていくと、コードの構成といったところでも驚くことがあった。例えば今回取り上げた「Hey Hey Daddy Blues」はCのキーなのだが、通常では出てこないA♭のコードが使われていたりする。そしてこのコードこそがコミカルな雰囲気を演出していて、あの娘に振り向いてもらえない男の苦痛を愛おしくさせてくれている。一般的なブルースと言うと、憂鬱な歌詞を悪魔的なサウンドに乗せているものが多いものだが、このあたりのサジ加減はホントに絶妙だ。

 しかしながら、現実のブレイク自身は女には手こずっていたらしく、「俺はピストルに手を伸ばし、お前のどてっ腹を狙っているんだ」とか、 「黙らせるには、殴りつけるしかない 」などと、女性に対してのヤバすぎる歌詞も多く残っている。でもそれでいて、歌詞に対しての音使いはウキウキ感が溢れているいる。そう、けっきょく、これこそがブラインド・ブレイクなのかもしれない。どんなトラブルがやってきても笑ってやり過す。どんな時でも楽しく暮らす。つまり、キツイ時こそラグなリズムでやり過ごせってことらしい。

I Wish I Knew How It Would Feel to Be Free / ニーナ・シモン

 何にも束縛されずに自由でいたい。そんな風に思っている人はたくさんいるだろう。でも「自由とは何か」の問いに明確な答えを出せる人はいるだろうか。たとえ社会生活を捨てて生きれたとしても、この地球上に存在する以上は何かしらのルールに縛られてしまう。自由への憧れは、ぼんやりとしたままで終わるものなのかもしれない。それでもその答えに対して明確に答えた女性シンガーが存在していた。彼女の名前はニーナ・シモン。彼女の真実に迫るドキュメンタリー映画「ニーナ・シモン〜魂の歌」を見たことがある方なら、映し出されたニーナの印象的な答えを既に見つけていることだろう。そして「自由になりたい」という邦題がついた「I Wish I Knew How It Would Feel to Be Free」の歌に癒されていたはずだ。

 さて、ニーナ・シモンは、1933年、ノースカロライナ州のトライロンに7人兄弟の6番目として生まれた。貧しいながらも熱心なクリスチャンの家庭では賛美歌を歌うためにピアノによる音楽があふれていた。そんな環境でニーナは幼い頃からピアノを弾き始め、その才能を見出されていく。周りからの支援も受けるようになると、黒人女性初のクラシック・ピアニストになるべくジュリアード音楽院に進学するまでに成長した。しかし、黒人であることの差別はまだ激しく、クラシック・ピアニストへの夢はそこで閉ざされてしまった。それでもニーナは家族を助けるため、ナイト・クラブでピアノを弾き始める。さらにそこではオーナーの強い要望と週給90ドルを断れずに、嫌々ながらだが歌うことも始めた。ところがそのおかげで彼女は人気者になり、レコード・デビューのチャンスが舞い込んでくる。1957年には「I Love You Porgy」がヒット。その後はライブ・アルバムも多く発表し、そのコンサートの様子が各方面で喝采を浴び、スターへの扉が開かれていくのだ。マスコミはニーナを取り上げ、コンサートの依頼は殺到した。クラシック・ピアノの技術にナイト・クラブで得たジャズの要素を取り込んだ演奏は独自のもので、彼女への関心は広がるばかりだった。

 ニーナは今まで見たこともない金額の小切手を受け取り、コンサートの収入も増え続けた。大きいクローゼットにゆったりしたバスルーム。最新のベンツも手に入れた。そして後に夫でマネージャーとなるアンドリューと出会う。人生の幸福感は、お金や名誉だけでは測れるものではないが、彼女にとって最初の到達点だっただろう。まもなく二人の間には娘も生まれ本当に最高潮な生活だった。夫のアンドリューのマネージメント能力は高く、仕事もどんどん忙しくなっていった。しかしそんな中、アラバマ州にあるバーミンガムの黒人教会で爆破事件が起こる。KKKという白人至上主義者の団体が爆破させたのだ。11才と13才の少女4人が殺されてしまう。ニーナは怒り狂ったように「Mississippi Goddam」という曲を作り、当時盛り上がりつつあった公民権運動へ傾倒していく。「この国はどこも嘘だらけ」「私たち黒人は立ち上がる時が来た」と、痛烈な人種問題への警告を放ったのだ。

 こうして黒人のために戦う歌手へと変貌していったニーナは、次々と政治的に過激な歌を歌っていくようになった。ついにはキング牧師ら指導者たちとも出会い、その活動もより活発になっていく。「この白人たちと戦う準備は出来たの?」と歌った「Are you ready BLACK PEOPLE」のライブ映像などを見ると、公民権運動の中心にいたことは明らかだ。だが、そのことで彼女は音楽のメインストリームからは外されてしまう。あまりにも強烈な歌をどんどん作っていくことで放送禁止になる曲も出たりと、収入の面でも落ち込んでいくのだった。さらに私生活の方でも、マネージャーでもある夫との揉め事が多くなり、暴力沙汰も増え、やがてDV依存症にまでなってしまう。

 それでも貧しさから抜け出せた時のように彼女には音楽が残っていた。どうやら自由の姿を見出したのはこの頃のようだ。どんどん精神状態が追い詰められていく中で登ったステージの上で、彼女は何度かその自由を感じたことがあるというインタビューを残している。それはこんな言葉だ。

 「自由とは、恐れのないこと」

 凄い言葉は頭で理解してしまう前に感じてしまうものだが、この言葉に触れた時も同じことを感じてしまった。偉大なアーティストたちは、自分の苦悩を作品に込めて昇華させることで危うい精神状態を開放し、自由を得ていると聞いたことがある。どうやらニーナもそのようだ。そして冒頭で紹介した「I Wish I Knew How It Would Feel to Be Free」だが、この曲は1963年にビリー・テイラーが書いた曲で、後に「自由な気持ちを知ることができたらいいのに」という歌い出しから始まる歌詞が付けられたもの。それをニーナが1967年にカバーしている。彼女のファンには人種間の問題や、ジェンダー問題のような複雑な問題を抱えている人たちが多いという意見を目にするが、結局はどんな人も複雑に生きているのだと思う。何かを失ったり、失敗したり、希望を持てなくなったりと、そんなことを毎日繰り返しているからだ。だから、たとえ彼女の熱烈なファンではなかったとしても、自分の味方のように鼓舞してくれるニーナの歌声は聴いてみてほしいと思っている。