投稿者: SIGEN

「新しい生活様式」が始まり、ローカルバンドマンが選んだスタイルは、戦前ブルースマンと呼ばれる人達の様式美。およそ100年前に確立された音楽は、現在の状況さえも癒してくれるのではと研究中。

Hey Hey Daddy Blues / ブラインド・ブレイク

 コロナが世界的大流行という中では、スポーツ状況も酷いものだったが、今年は少しづつ改善されオリンピックも開催されている。開催されることに関しては、両手を上げて賛成していたわけではなかったが、選手たちが躍動している姿には元気を頂いている。さらに今年のMLBには、世界中の憂鬱を吹き飛ばし続けてくれている大谷翔平選手が映し出されている。その活躍ぶりはベーブ・ルースを引き合いに出されるほど沸騰中だ。そのルースが二刀流として活躍していたのは1918年前後のこと。およそ100年前の話だが、当時はさらにスペイン風邪の大流行もあった時代でもある。今の大谷選手の活躍と、ルースの姿が重なって見えてくるのは不思議なことでもないのかもしれない。

 さて、そのベーブ・ルースと同じ時代に活躍したラグ・タイム・ギターの王様がブラインド・ブレイクである。その演奏は暖かでリラックスしたユーモアなものだったが、弾き語りでもカントリー調のような野暮ったさはまったく無く、ピアノのようにギターを操る男として名をあげていくのであった。

 しかしブラインド・ブレイクについては、長い間その背景が謎に包まれていた。写真もたった一枚しか残っておらず、頼りになるのはブレイクの少し後に活躍したタンパ・レッドや、ロニー・ジョンソンらの証言によるものと、残された音源だけであったからだ。それでも2011年になると、ようやく死亡証明書も見つかり生死の状況も分かってきた。50年以上もの間、出身はフロリダで、本名はアーサー・フェルプスとされ、最後は車に轢かれて死亡したとか、強盗に殺されたなどと伝わっていたのだが、それらすべては間違いであり、生まれは1896年、ヴァージニナ州。本名はアーサー・ブレイク。やがて肺炎となり38才という若さで死亡している。

 さて、時は1926年、戦前ブルースマンの代表格であるブラインド・レモン・ジェファーソンが吹き込んだブルースが評判となり、その大当たりに味をしめたレコード会社のスカウトたちは他にも売れそうなブルースマンを探そうと飛び回っていた。そこで発見され、次に売り出されたのがブラインド・ブレイクというわけだ。ソロ歌手として売り出される前には、他の歌い手のバックを務めていたこともあって、伴奏としてのギター演奏がとにかく優れていた。レオラ・B・ウィルソンの「Dying Blues」などを聴けばすぐに理解できるはずだ。そのサイドマンとしての経験があったからなのか、弾き語りで歌うようになってもリズムに狂いはなく、それどころかラグ調のダンス・チューンを信じられなく速いテンポで繰り広げている。しかも彼は盲目なのだ。最初にソロとして売り出された「West Coast Blues」は100年前の演奏だとはとても思えない。ピアノの左手のブン、チャという動きをギターで真似しようとしていたということだが、そのアイデアを発展させ、既にリズムに対してアクセントを巧みに使い始めている。

 次に彼の曲をコピーしていくと、コードの構成といったところでも驚くことがあった。例えば今回取り上げた「Hey Hey Daddy Blues」はCのキーなのだが、通常では出てこないA♭のコードが使われていたりする。そしてこのコードこそがコミカルな雰囲気を演出していて、あの娘に振り向いてもらえない男の苦痛を愛おしくさせてくれている。一般的なブルースと言うと、憂鬱な歌詞を悪魔的なサウンドに乗せているものが多いものだが、このあたりのサジ加減はホントに絶妙だ。

 しかしながら、現実のブレイク自身は女には手こずっていたらしく、「俺はピストルに手を伸ばし、お前のどてっ腹を狙っているんだ」とか、 「黙らせるには、殴りつけるしかない 」などと、女性に対してのヤバすぎる歌詞も多く残っている。でもそれでいて、歌詞に対しての音使いはウキウキ感が溢れているいる。そう、けっきょく、これこそがブラインド・ブレイクなのかもしれない。どんなトラブルがやってきても笑ってやり過す。どんな時でも楽しく暮らす。つまり、キツイ時こそラグなリズムでやり過ごせってことらしい。

I Wish I Knew How It Would Feel to Be Free / ニーナ・シモン

 何にも束縛されずに自由でいたい。そんな風に思っている人はたくさんいるだろう。でも「自由とは何か」の問いに明確な答えを出せる人はいるだろうか。たとえ社会生活を捨てて生きれたとしても、この地球上に存在する以上は何かしらのルールに縛られてしまう。自由への憧れは、ぼんやりとしたままで終わるものなのかもしれない。それでもその答えに対して明確に答えた女性シンガーが存在していた。彼女の名前はニーナ・シモン。彼女の真実に迫るドキュメンタリー映画「ニーナ・シモン〜魂の歌」を見たことがある方なら、映し出されたニーナの印象的な答えを既に見つけていることだろう。そして「自由になりたい」という邦題がついた「I Wish I Knew How It Would Feel to Be Free」の歌に癒されていたはずだ。

 さて、ニーナ・シモンは、1933年、ノースカロライナ州のトライロンに7人兄弟の6番目として生まれた。貧しいながらも熱心なクリスチャンの家庭では賛美歌を歌うためにピアノによる音楽があふれていた。そんな環境でニーナは幼い頃からピアノを弾き始め、その才能を見出されていく。周りからの支援も受けるようになると、黒人女性初のクラシック・ピアニストになるべくジュリアード音楽院に進学するまでに成長した。しかし、黒人であることの差別はまだ激しく、クラシック・ピアニストへの夢はそこで閉ざされてしまった。それでもニーナは家族を助けるため、ナイト・クラブでピアノを弾き始める。さらにそこではオーナーの強い要望と週給90ドルを断れずに、嫌々ながらだが歌うことも始めた。ところがそのおかげで彼女は人気者になり、レコード・デビューのチャンスが舞い込んでくる。1957年には「I Love You Porgy」がヒット。その後はライブ・アルバムも多く発表し、そのコンサートの様子が各方面で喝采を浴び、スターへの扉が開かれていくのだ。マスコミはニーナを取り上げ、コンサートの依頼は殺到した。クラシック・ピアノの技術にナイト・クラブで得たジャズの要素を取り込んだ演奏は独自のもので、彼女への関心は広がるばかりだった。

 ニーナは今まで見たこともない金額の小切手を受け取り、コンサートの収入も増え続けた。大きいクローゼットにゆったりしたバスルーム。最新のベンツも手に入れた。そして後に夫でマネージャーとなるアンドリューと出会う。人生の幸福感は、お金や名誉だけでは測れるものではないが、彼女にとって最初の到達点だっただろう。まもなく二人の間には娘も生まれ本当に最高潮な生活だった。夫のアンドリューのマネージメント能力は高く、仕事もどんどん忙しくなっていった。しかしそんな中、アラバマ州にあるバーミンガムの黒人教会で爆破事件が起こる。KKKという白人至上主義者の団体が爆破させたのだ。11才と13才の少女4人が殺されてしまう。ニーナは怒り狂ったように「Mississippi Goddam」という曲を作り、当時盛り上がりつつあった公民権運動へ傾倒していく。「この国はどこも嘘だらけ」「私たち黒人は立ち上がる時が来た」と、痛烈な人種問題への警告を放ったのだ。

 こうして黒人のために戦う歌手へと変貌していったニーナは、次々と政治的に過激な歌を歌っていくようになった。ついにはキング牧師ら指導者たちとも出会い、その活動もより活発になっていく。「この白人たちと戦う準備は出来たの?」と歌った「Are you ready BLACK PEOPLE」のライブ映像などを見ると、公民権運動の中心にいたことは明らかだ。だが、そのことで彼女は音楽のメインストリームからは外されてしまう。あまりにも強烈な歌をどんどん作っていくことで放送禁止になる曲も出たりと、収入の面でも落ち込んでいくのだった。さらに私生活の方でも、マネージャーでもある夫との揉め事が多くなり、暴力沙汰も増え、やがてDV依存症にまでなってしまう。

 それでも貧しさから抜け出せた時のように彼女には音楽が残っていた。どうやら自由の姿を見出したのはこの頃のようだ。どんどん精神状態が追い詰められていく中で登ったステージの上で、彼女は何度かその自由を感じたことがあるというインタビューを残している。それはこんな言葉だ。

 「自由とは、恐れのないこと」

 凄い言葉は頭で理解してしまう前に感じてしまうものだが、この言葉に触れた時も同じことを感じてしまった。偉大なアーティストたちは、自分の苦悩を作品に込めて昇華させることで危うい精神状態を開放し、自由を得ていると聞いたことがある。どうやらニーナもそのようだ。そして冒頭で紹介した「I Wish I Knew How It Would Feel to Be Free」だが、この曲は1963年にビリー・テイラーが書いた曲で、後に「自由な気持ちを知ることができたらいいのに」という歌い出しから始まる歌詞が付けられたもの。それをニーナが1967年にカバーしている。彼女のファンには人種間の問題や、ジェンダー問題のような複雑な問題を抱えている人たちが多いという意見を目にするが、結局はどんな人も複雑に生きているのだと思う。何かを失ったり、失敗したり、希望を持てなくなったりと、そんなことを毎日繰り返しているからだ。だから、たとえ彼女の熱烈なファンではなかったとしても、自分の味方のように鼓舞してくれるニーナの歌声は聴いてみてほしいと思っている。

Whisky Head Woman /トミー・マクレナン

 友達が離婚したらしいとのニュースが流れてきた。突然のことだったので驚いたが、それ以上に自分の身体にも痛みが走ったことの方に動揺してしまった。いつもの調子ならば笑い飛ばせるはずなのに、今回に限っては心配になってしまったからなのかもしれない。いつの間にか50歳も過ぎて子育てはひと段落の世代ではあるが、今度は両親の介護なども始まってきている。あいつのお袋さんは無事なのだろうか。そんなことまで勝手に思い込んでしまった。今となれば特別な時代の恩恵を受けて、浮かれた青春時代を送る事ができた我々ではあったが、とっくにあの淡い幻想も消え去り、老いも確実に訪れて来ている。ここから先はどのようにして生きていこうか。当たり前のように小学生の頃に描いた作文とは全く違った人生になってしまった。それでも、どのようなことがあったとしても、結局は今の道を選んできたということになる。ならば老後はブルースマンになりたいものだ。今でも海の向こうでは、こんな具合にローカルなブルースマンたちが素朴な椅子を並べてブルースを奏でている。年老いた彼らは、くだらない話を繰り返してワイワイと楽しそうだ。人生の最後をそうやって過ごせたら十分に幸せなのではないだろうか。

 ところで、一般的に「誰のような人生を送りたいですか?」と問われたとしたならば、ブルースマンがランクインされることはありえない。大酒呑みのブルースマンであればなおさらだ。破滅に向かう物語は映画やドラマの中でこそ見ていられるもので、こんな厄介な男が近くにいるとなればウンザリしてしまう。それでも世の中というものは不思議なもので、そんなどうしようもない男が愛されるケースだって少なくはないのである。

 さて、トミー・マクレナンはそんな男のひとりだ。1908年にミシシッピーで生まれた彼は、綿花の主要な出荷場所であったグリーンウッドで働き始めた。ここで様々なブルースマンたちとの出会いもあり、そのデルタ・ブルースを学んでいくのだった。初めてマクレナンのブルースに触れる人は、酒で荒れた唸り声とギターを叩きつけるようにしてビートを刻んでいくスタイルに、とても荒々しい印象だけを受け取ってしまうかもしれないが、ギターの腕前は同世代の大スターであるロバート・ジョンソンに比べても引けをとってはいない。コードを分解して構成しているフレージング、さらに絶妙なブルー・ノートを響かせ味付けをしていく技法など、目を見張る録音がたくさん残っている。もちろん、その頃のジューク・ジョイント(安酒場)での演奏は評判になっていくのだった。

 そして1938年頃、戦前ブルースのレーベルとして有名なブルーバードは、人気アーティストであったビック・ビル・ブルーンジーからマクレナンの存在を知らされ、さっそくメンフィスの農場へ出向き、彼をシカゴへと招き入れた。当時のシカゴのような大都市では、リロイ・カーやタンパ・レッドに代表されるシティ・スタイルが主流となっていて、ブルーバードでも「ブルーバード・ビート」と呼ばれた軽快なリズムを押し出していたのだったが、1930年代中期になると、弾き語りやそれに近いものの人気も復活し始めてきていた。いち早くその波に乗りレコーディングを始めていたのがロバート・ジョンソンで、ブルーバードはそれに続けとばかりにトミー・マクレナンを売り出そうと考えていたのだ。

 ところが、マクレナンは田舎者丸出しのスタイルで酒と女のブルースを歌い、何かと人に酒をたかり続けた。さらに平気でトラブル用語を使うことも多かったために揉めごとも多かったらしい。まさに彼の最大のヒット曲「酒のことしか頭にない女」とは自身のことのようだ。マクレナンはこの歌の中で「もうこれ以上呑むのは止めな」と女に忠告していたのだが、それでも自身は粗悪な密造酒を飲み続けてしまった。晩年は完全なアルコール中毒になっていて、ブルーバードから何枚ものレコードを出したミュージシャンの面影はなかったという話も残っている。

 こうして彼の人生を振り向いてみれば、「ほら見たことか」「ブルースマンなんてロクなもんじゃない」との声が聞こえてきそうだが、マクレナンは「Cotton Patch Blues」のような望郷の歌もよく歌っている。ミシシッピーに残してきた女に向けて「俺が落ち着くまで、お前も元気でいてくれ」と歌っているのだ。だからだろうか、彼のレコードは南部でも良く売れたという。大都市シカゴで、故郷の女を思い出す男たち。田舎で、自分を残してシカゴに行った男を想う女たち。どちらも当時の社会では弱い立場にあった人たちだった。強い男だけが優しくなれるものではないのだ。弱い男だからこそ、弱い立場にある人たちへ優しさを届けることができたのだと思う。誰でも永遠に強者の立場には留まれない。弱者になった時にこそ、本当の優しさは問われているのかもしれない。