後悔というものには、そうなるかもしれないと覚悟をキメている時もあるが、突然にやってくる時もある。今回の場合がまさにそれでいて、言いようのない痛みが続いている。家族でもなく、友だちでもなく、仕事仲間でもなかったが、なんだかんだとお節介を施してくれた呑み屋のマスターが亡くなった。世の中を舐めきっていた高校生の頃からタバコを吸いに通った店は、ずいぶんと前に閉じてしまってはいたが、それでもマスターとは頻繁に顔を合わせることができていた。ただ昨年からのコロナ影響や、プライベートでの出来事なども重なり、マスターは故郷の米子に帰ることを決めてしまった。結局そこからは電話やショート・メールでのやり取りだけになってしまっていた。今になって思い返せば、先月のメールではいつになく弱気だった。それでもいつものようにマスターからの着信が5月1日に入っていた。ただ、その日はこちらで震度5弱の揺れもあり、きっとそれを気遣って連絡をくれたものだと思っていた。だから着信に気づいた後でも、電話ではなくショート・メールで簡単に返信しただけにしてしまった。それでもいつもならば数回程度のやり取りがあり、そこから電話で話すようになることも多かったのだが、不思議とその日はそのままだった。しばらくして、またマスターから着信とショート・メールが入ってきた。しかしそれは、「5月1日に父が亡くなりました」という娘さんからの最悪の連絡だった。
マスターのことを想うと、いつも西岡恭蔵さんの曲が頭の中で流れ出す。マスターにそっくりな風貌と、マスターにピッタリと思える曲が詰め込まれた作品ということで、恭蔵さんの最後のアルバム「Farewell Song」を帰郷へのプレゼントとして手渡していたことがあったからだ。マスターも気に入ってくれていたみたいで「車で聴きながら一緒に歌っているぞ」と話してくれていた。
「ゾウさん」の愛称で呼ばれた恭蔵さんは1948年生まれ。’60代後半に、大阪の難波元町にあった「喫茶ディラン」に引き寄せられた若者のひとりだった。店名のディランはもちろんボブ・ディランから取られたもので、そこには大塚まさじさん、中川イサトさん、永井ようさん、友部正人さんら、他にも様々な人たちが全国から集まってきたいたらしい。当然のように彼らは一緒に歌うようになり、「春一番コンサート」など、大掛かりな定期コンサートも開催するようになっていったのだった。
多くのアーティストを輩出した「喫茶ディラン」だが、1972年には恭蔵さんもアルバム「ディランにて」でソロデビューを果たす。このアルバムには初期の代表曲「プカプカ」も収録されていて、今でも多くの人たちに歌い継がれている。その後は細野晴臣さんとも交流を深めていき、アメリカの伝統音楽に近づいていく。3rdアルバムのタイトルともなった「ろっかばいまいべいびい」は最高だ。またそれと同時期に、ロック歌手である矢沢永吉さんから歌詞の依頼を受けるようにもなる。矢沢さんは当時、洋楽のレコードから流れてくる色気のあるボーカルを模索していた時期で、ダンディズム溢れる歌詞を必要としていたのだった。恭蔵さんはこの時から矢沢さんと共に「黒く塗りつぶせ」「トラベリン・バス」「バーボン人生」「逃亡者」ら、他にも多くの共作を残していく。
身体が大きくてもシャイだった恭蔵さんと、圧倒的なエネルギーを放つ矢沢さん。そんな正反対なふたりの共通点を探すとすれば、男が望む生き方を描くことだったのかもしれない。「A Day」では男女が持つ哀しみを叙情の旋律で描きながらも、やがては幸福感に包まれるという物語になっている。その哀しい出来事を塗り替えて、幸福感へと向かわせてくれる歌詞に我々は安堵する。恭蔵さんの描きたかった世界観はそこにあったのではないだろうか。最後に残したアルバムにもそんな曲が多い。ゴスペルを感じさせてくる「Glory Hallelujaj」や「I Wish」など、子供から大人までエールを頂ける作品が収録されている。
そういえば、マスターもいつも弱い者の味方だった。子供が大好きで、いつか「子ども食堂」をやりたいと話してくれていた。店に行くと、近所の学校帰りの男の子が我が家のように寛いでいたのを思い出す。一緒に歌えたのは多くはなかったけれど、思い出は他にもたくさんある。向こうでマスターと会えるのはいつか分からないけれど、その時は恭蔵さんの曲を皆んなで演れたらいいなと思っている。