投稿者: SIGEN

「新しい生活様式」が始まり、ローカルバンドマンが選んだスタイルは、戦前ブルースマンと呼ばれる人達の様式美。およそ100年前に確立された音楽は、現在の状況さえも癒してくれるのではと研究中。

Come On In My Kitchen / ロバート・ジョンソン

 休日の夕方、誰もいない台所で窓の外を眺めていた。昨年ほどの積雪量ではないが、相変わらず今年の冬も寒い。呑むには少し早い時間だが、こんな日は雪見酒だとお気に入りのお酒を温めた。その間にギターを手にして弾いてみる。いい感じのリバーブが部屋全体を包みこんできた。その音は自分の部屋で弾くのとは違っている。当たり前のように、すぐにお酒も利いてきてしまった。

 そういえばあのロバート・ジョンソンの歌に「Come On In My Kitchen」があったのを思い出した。「台所に入ってきなよ、もうすぐ外は雨になる」ってやつだ。あのスライド・ギターと共に繰り出されるフレーズには、彼がブルースに求めた全てのものが詰まっているようだ。不用意に真似したら自分の台所にも悪魔がやってくるかもしれない。恐る恐るだが出だしのフレーズをなぞってみる。なんとなく優しい気分にもなれた。それとわずかに寂しい気分も残った。とにかく彼を表現するのに使われている”デモニッシュ”とは遠い気分だった。空想がまた深まっていく。

 ロバート・ジョンソンの名前を知ったのは山川健一さんの小説かコラムだったと思う。我々世代によくあるエピソードのひとつ、ローリング・ストーンズからロバート・ジョンソンへの道を自分も辿ってしまったのだ。作家である山川さんは熱狂的なストーンズ・ファンであり、彼の文章からストーンズとジョンソンの名前をよく目にするようになっていた。それらを追いかけ読み漁るうちに、いつしかそのブルースマンを好きになってしまっていた。それでもジョンソンのアルバムを実際に購入できたのは、彼を知ってからずいぶん後の1990年のことだった。その年に発売された「The Complete Recordings」という2枚組のアルバムには、彼がレコーディングした29曲と、別テイクが合わせて収録されていた。今しがた、久しぶりにそのライナー・ノーツを眺めて見ていたのだが、ぎっしりと書かれている解説や、キース・リチャーズ、エリック・クラプトンをはじめとするインタビューなど、他にも貴重な証言が多いことには改めて驚いてしまう。

 さて解説によると、さまざまな憶測が飛んでいたジョンソンの死亡説は、ジューク・ジョイントの店主が、自分の妻を誘惑するジョンソンに嫉妬し、ウィスキーに毒を盛らせたとして決着がつけられている。それにしてもジョンソンの生涯は、他にも女たちとの”よこしまな情事”を盛り付けて語られている。実際にレコーディングされた29曲の歌詞にも猥雑なものも多い。しかし、ここだけを取り上げているだけでは彼のブルースは理解できないだろう。当時のミュージシャンたちがそうしたように、彼もまた街角やジューク・ジョイントのような酒場で歌いながら曲を作り上げていたからだ。客が踊りやすいようなリズムとか、歌詞にしてもその場の客が楽しめるように作られていたはずである。商業音楽として食べていくための要素が含まれていたことは容易に想像できてしまうのだ。

 しかしながら、本当の意味でジョンソンをブルースへと強く向かわせたのは、最初の結婚が無惨に消し去られてしまったことだった。死産という形で妻と子供を一緒に亡くしてしまった心の傷を癒してくれるものこそ、彼のリアルなブルースだった。そう言えばロバート・ジョンソンの歌を演奏すると、置き去りにされた気分になってしまう時がある。自分の元を去っていく女の情景を歌った「Love In Vain Blues」なんてまさにそうだ。他のブルースマンとは違う憂鬱がひっそりと残ってしまう。やれやれ…。気楽に休日のキッチン・ブルースを楽しもうと思っていたのだが、彼のブルースはそう簡単にはいかないらしい。いったいこの憂鬱はどうしたら取り除けるものだろう。

 

What a Wonderful World / ルイ・アームストロング

 年末からジャズ・ギターを習い始めた。ついにと言うべきなのか、ようやくと言うべきなのかは分からないが、始まったと言うことはその時が来たと言うことなのだろう。ロックンロールにかぶれていた時期はジャズを聴くこともなかったが、ブルースに癒されるようになった頃からはジャズという音楽にも頻繁に交差するようになっていた。ただ、ロックやブルースのギタリスト達から受けたような、衝動という揺さぶりがそうさせたのではなかった。この音楽をもっと知りたいと思わせたのは、ビル・エバンス・トリオの音楽のせいだった。彼らのサウンドは自分の美容室によく似合っていた。あの音楽を聴きながらヘア・カットしていると、お客さんの髪の毛について彼らと会話しているようでもあり、その仕上がりも普段と違って見えているようだった。歌詞もなく、もちろんシンガーのいない即興音楽がどうしてココロを満たしてくれるのだろう。この少しだけの幸福感の理由を知りたかった。

 ところで、どの分野でもそうだろうが、何かの技術を手に入れるのはそう容易いことではない。美容技術にしても長い日々の積み重ねがあった。ジャズ・ギターもすぐに弾けるようになるわけではないことを分かっていた。それでも初日のレッスンからつまずくとは思ってもいなかった。単純なブルースのウォーキング・ベースが弾けないのだ。指一本でも弾けるようなラインでさえついていけなかった。この山は相当に高そうである。

 さて、ジャズ・ギターにも取り組むことになったことを記念して、ジャジーな曲を弾いてみようと思った。難しく迷いそうな道に入ってしまったのだが、とにかく始まりくらいは楽しく行きたいということでルイ・アームストロングの代表曲「What a Wonderful World」を選んだ。もちろんこの曲はまだ習ってはいない。ルイの演奏のようにように幸せになれたらいいという願いを込めてということだ。

 ルイ・アームストロングはニューオーリンズのアフリカ系アメリカ人が多く住む貧しい地区に生まれた。楽しみが少なかった子供の頃、祭りに浮かれてピストルを発砲してしまい少年院に送られてしまう。当然のようにそこでの生活はとても厳しく辛いものであった。それでもブラスバンドで出会った楽器と音楽が彼を救い始めていく。しばらくすると院内での起床、食事、消灯の合図のラッパを吹く係に任命されることにもなった。前任者の少年が何かの事情でいなくなってしまったのでルイにその役が回って来たのである。大急ぎで合図のラッパの吹き方を覚えた彼は見事に代役を果たした。しかもそればかりではなく、そこで生活している者たちが楽しく朝を迎え、安らかな気持ちで眠りに就くことができるようになったということだった。なんという素晴らしい才能だろう。彼のスタイルは初めから完成していたのかもしれない。

 ルイの演奏の様子を見ていると、いつもにこやかに笑っている。辛いことなど持ち合わせていないかのようだ。その理由のひとつはニューオリンズのマーチング・バンドで育ったことだろうか。伝統的なパレードは埋葬に向かう人々の心を鎮めるためのものでもあるし、そこからの帰り道は、故人の魂の解放を表すために明るい音楽を奏でて天国へ行くことを祝うものでもある。そしてこの底抜けの明るさは、まるでルイの笑顔のようでもある。生への果てしなき喜びを表現し演奏している彼は、本当に楽しくてしょうがなかったのかもしれない。ブルースという音楽が人生の憂いを慰めるものならば、どうやらジャズという音楽はその憂いを解放してくれる効果もあるらしい。もしもそうであるならば、習い始めたジャズ・ギターもそうなって欲しいものだ。

胸が痛い / 憂歌団

 ちょっとした知り合いが新しくオープンする店のシェフを任されたという事で、試食して欲しいからと、食事に添えるパンを持って来てくれた。最近は高級食パンなどと、それだけで美味しい甘いパンが目立っているが、そのパンは一緒に食べると料理を引き立ててくれる、いわゆる「お食事パン」だった。早速いただいてみると、スープやシチューにはもちろん似合いそうだし、ハーブを使った料理や、トマト煮込みやオイル煮込みなど、今までいただいた印象深いレストランでのメニューまでもを思い出させてくれた。そう言えばワインを好きになったのもあの店からだった。最後のデザートまでそれぞれを引き立たせていく味わいは演奏のようでもあり、誰もが大切だという慈愛のようなものが流れていたように思い出す。

 ところで料理に限らず、手作りの作品には作者の思考が現れやすく、そう簡単には嘘をつけないものだと思っている。素朴なアコースティック・ブルースの演奏などもそうである。日本ではそのようなブルース・バンドを多く見かけないが、唯一無二のバンドとして憂歌団はブルースという憂いを我々に届けてくれていた。

 憂歌団の始まりは高校の美術科という教室にまで遡る。そこで出会った木村少年と内田少年は、お互いのレコードの貸し借りをするような仲になっていく。当時(1969年前後)は、ジミ・ヘンドリクス、クリーム、レッド・ツェッペリン、テン・イヤーズ・アフターなどが大挙して押し寄せていた時代。2人も夢中になり、お好みのロック・ギタリストのインタビュー記事から、彼らのルーツであるブルースにまで辿り着くこととなる。その時の印象を内田さんは「何らかの形式の中それをはみ出ようとしているかのようなものが好きだった。どうもそれがブルースであったらしい」と述べている。ロックとは違ったシンプルな演奏を高校生の時に聴いて、その深さに魅了されたというのだから、早熟な感性には驚かされる。とにかく2人は古いブルースを聴き始め、アコースティック・ギターも持ち寄り、授業もそこそこにマディ・ウォーターズやエルモア・ジェイムスらを唄い奏でるようになっていった。こうしてデッサン室から始まった憂歌団は、高校を卒業後もジャズ喫茶などで演奏するようになっていく。そこに同級生だったベースの花岡さんとドラムの島田さんも加わり、20年以上に渡り不動のメンバーで活動していくのである。

 ところで、レコード・デビュー前の憂歌団のレパートリーは全てアメリカのブルース。木村さんの日本人離れした声もあって、海の向こうのサウンドのかっこ良さを出せていたからそのままで良いという感じだったらしい。それでも音楽活動が広がるにつれ、「ブルースを演るなら日本語でやらんといかんのやないか」という意見も聞こえてくるようになってきた。フォークの人気に沸いていた当時の影響もあり、サウンドだけでなく歌詞も揃っての表現を求められてきたのだ。こうして自分達のブルース表現の模索が始まっていくのだが、シリアスになり過ぎないところが憂歌団である。偶然がどんどん重なり、同じように面白い人たちが集まってきた。「嫌になった」「10$の恋」などには沖てる夫さんが歌詞をつけ、「シカゴ・バウンド」「俺の村では俺も人気者」などは、名古屋の尾関ブラザーズという兄弟ユニットの曲である。みんな飲み友達だったらしい。

 デビュー・シングルの「おそうじオバチャン」にしても、4ビートのブルースを遊びで演っていた時に木村さんが笑福亭仁鶴さんのマネをしながら勝手に唄い出したのがきっかけとなる。当時の様子を内田さんはこう語る。『皆んなと演奏できれば嬉しいばかりで、これこれこんな音楽を作ろうというビジョン等無く、合奏していれば何かが生まれるんじゃないかと安易に考えていた。しばらくするとレコーディングの話が舞い込んできた。大した力みも無く録音に向かう。今までやって来た事を出せば良いだけ。それは数年分か19年分からぬが。そうやってできたのが最初のアルバムだ。』なんとなく演っていたら何かが生まれたと言い切ってしまう内田さんがとてもいい感じだった。ロック・バンドのように「甘さ」と「毒」が混じり合った危うさも魅力的だが、憂歌団のように馴染みの居酒屋で出される突き出しのような「安心感」と「期待感」のブルースもまたいいものだ。それはキャリアが深まってきた頃のヒット曲「胸が痛い」にも宿っている。作詞に康珍化、作曲は羽田一郎というビックネームの2人を迎えて作られた楽曲はとても洗練されているが、憂歌団の演奏はとても郷愁を感じるブルースだ。ここでも嘘をつかずに今までやって来たことをさらけ出していたのだろう。根付いてしまった憂鬱までも愛してしまっているかのようだ。