投稿者: SIGEN

「新しい生活様式」が始まり、ローカルバンドマンが選んだスタイルは、戦前ブルースマンと呼ばれる人達の様式美。およそ100年前に確立された音楽は、現在の状況さえも癒してくれるのではと研究中。

Whisky Head Woman /トミー・マクレナン

 友達が離婚したらしいとのニュースが流れてきた。突然のことだったので驚いたが、それ以上に自分の身体にも痛みが走ったことの方に動揺してしまった。いつもの調子ならば笑い飛ばせるはずなのに、今回に限っては心配になってしまったからなのかもしれない。いつの間にか50歳も過ぎて子育てはひと段落の世代ではあるが、今度は両親の介護なども始まってきている。あいつのお袋さんは無事なのだろうか。そんなことまで勝手に思い込んでしまった。今となれば特別な時代の恩恵を受けて、浮かれた青春時代を送る事ができた我々ではあったが、とっくにあの淡い幻想も消え去り、老いも確実に訪れて来ている。ここから先はどのようにして生きていこうか。当たり前のように小学生の頃に描いた作文とは全く違った人生になってしまった。それでも、どのようなことがあったとしても、結局は今の道を選んできたということになる。ならば老後はブルースマンになりたいものだ。今でも海の向こうでは、こんな具合にローカルなブルースマンたちが素朴な椅子を並べてブルースを奏でている。年老いた彼らは、くだらない話を繰り返してワイワイと楽しそうだ。人生の最後をそうやって過ごせたら十分に幸せなのではないだろうか。

 ところで、一般的に「誰のような人生を送りたいですか?」と問われたとしたならば、ブルースマンがランクインされることはありえない。大酒呑みのブルースマンであればなおさらだ。破滅に向かう物語は映画やドラマの中でこそ見ていられるもので、こんな厄介な男が近くにいるとなればウンザリしてしまう。それでも世の中というものは不思議なもので、そんなどうしようもない男が愛されるケースだって少なくはないのである。

 さて、トミー・マクレナンはそんな男のひとりだ。1908年にミシシッピーで生まれた彼は、綿花の主要な出荷場所であったグリーンウッドで働き始めた。ここで様々なブルースマンたちとの出会いもあり、そのデルタ・ブルースを学んでいくのだった。初めてマクレナンのブルースに触れる人は、酒で荒れた唸り声とギターを叩きつけるようにしてビートを刻んでいくスタイルに、とても荒々しい印象だけを受け取ってしまうかもしれないが、ギターの腕前は同世代の大スターであるロバート・ジョンソンに比べても引けをとってはいない。コードを分解して構成しているフレージング、さらに絶妙なブルー・ノートを響かせ味付けをしていく技法など、目を見張る録音がたくさん残っている。もちろん、その頃のジューク・ジョイント(安酒場)での演奏は評判になっていくのだった。

 そして1938年頃、戦前ブルースのレーベルとして有名なブルーバードは、人気アーティストであったビック・ビル・ブルーンジーからマクレナンの存在を知らされ、さっそくメンフィスの農場へ出向き、彼をシカゴへと招き入れた。当時のシカゴのような大都市では、リロイ・カーやタンパ・レッドに代表されるシティ・スタイルが主流となっていて、ブルーバードでも「ブルーバード・ビート」と呼ばれた軽快なリズムを押し出していたのだったが、1930年代中期になると、弾き語りやそれに近いものの人気も復活し始めてきていた。いち早くその波に乗りレコーディングを始めていたのがロバート・ジョンソンで、ブルーバードはそれに続けとばかりにトミー・マクレナンを売り出そうと考えていたのだ。

 ところが、マクレナンは田舎者丸出しのスタイルで酒と女のブルースを歌い、何かと人に酒をたかり続けた。さらに平気でトラブル用語を使うことも多かったために揉めごとも多かったらしい。まさに彼の最大のヒット曲「酒のことしか頭にない女」とは自身のことのようだ。マクレナンはこの歌の中で「もうこれ以上呑むのは止めな」と女に忠告していたのだが、それでも自身は粗悪な密造酒を飲み続けてしまった。晩年は完全なアルコール中毒になっていて、ブルーバードから何枚ものレコードを出したミュージシャンの面影はなかったという話も残っている。

 こうして彼の人生を振り向いてみれば、「ほら見たことか」「ブルースマンなんてロクなもんじゃない」との声が聞こえてきそうだが、マクレナンは「Cotton Patch Blues」のような望郷の歌もよく歌っている。ミシシッピーに残してきた女に向けて「俺が落ち着くまで、お前も元気でいてくれ」と歌っているのだ。だからだろうか、彼のレコードは南部でも良く売れたという。大都市シカゴで、故郷の女を思い出す男たち。田舎で、自分を残してシカゴに行った男を想う女たち。どちらも当時の社会では弱い立場にあった人たちだった。強い男だけが優しくなれるものではないのだ。弱い男だからこそ、弱い立場にある人たちへ優しさを届けることができたのだと思う。誰でも永遠に強者の立場には留まれない。弱者になった時にこそ、本当の優しさは問われているのかもしれない。

 

I wish / 西岡恭蔵

 後悔というものには、そうなるかもしれないと覚悟をキメている時もあるが、突然にやってくる時もある。今回の場合がまさにそれでいて、言いようのない痛みが続いている。家族でもなく、友だちでもなく、仕事仲間でもなかったが、なんだかんだとお節介を施してくれた呑み屋のマスターが亡くなった。世の中を舐めきっていた高校生の頃からタバコを吸いに通った店は、ずいぶんと前に閉じてしまってはいたが、それでもマスターとは頻繁に顔を合わせることができていた。ただ昨年からのコロナ影響や、プライベートでの出来事なども重なり、マスターは故郷の米子に帰ることを決めてしまった。結局そこからは電話やショート・メールでのやり取りだけになってしまっていた。今になって思い返せば、先月のメールではいつになく弱気だった。それでもいつものようにマスターからの着信が5月1日に入っていた。ただ、その日はこちらで震度5弱の揺れもあり、きっとそれを気遣って連絡をくれたものだと思っていた。だから着信に気づいた後でも、電話ではなくショート・メールで簡単に返信しただけにしてしまった。それでもいつもならば数回程度のやり取りがあり、そこから電話で話すようになることも多かったのだが、不思議とその日はそのままだった。しばらくして、またマスターから着信とショート・メールが入ってきた。しかしそれは、「5月1日に父が亡くなりました」という娘さんからの最悪の連絡だった。

 マスターのことを想うと、いつも西岡恭蔵さんの曲が頭の中で流れ出す。マスターにそっくりな風貌と、マスターにピッタリと思える曲が詰め込まれた作品ということで、恭蔵さんの最後のアルバム「Farewell Song」を帰郷へのプレゼントとして手渡していたことがあったからだ。マスターも気に入ってくれていたみたいで「車で聴きながら一緒に歌っているぞ」と話してくれていた。

 「ゾウさん」の愛称で呼ばれた恭蔵さんは1948年生まれ。’60代後半に、大阪の難波元町にあった「喫茶ディラン」に引き寄せられた若者のひとりだった。店名のディランはもちろんボブ・ディランから取られたもので、そこには大塚まさじさん、中川イサトさん、永井ようさん、友部正人さんら、他にも様々な人たちが全国から集まってきたいたらしい。当然のように彼らは一緒に歌うようになり、「春一番コンサート」など、大掛かりな定期コンサートも開催するようになっていったのだった。

 多くのアーティストを輩出した「喫茶ディラン」だが、1972年には恭蔵さんもアルバム「ディランにて」でソロデビューを果たす。このアルバムには初期の代表曲「プカプカ」も収録されていて、今でも多くの人たちに歌い継がれている。その後は細野晴臣さんとも交流を深めていき、アメリカの伝統音楽に近づいていく。3rdアルバムのタイトルともなった「ろっかばいまいべいびい」は最高だ。またそれと同時期に、ロック歌手である矢沢永吉さんから歌詞の依頼を受けるようにもなる。矢沢さんは当時、洋楽のレコードから流れてくる色気のあるボーカルを模索していた時期で、ダンディズム溢れる歌詞を必要としていたのだった。恭蔵さんはこの時から矢沢さんと共に「黒く塗りつぶせ」「トラベリン・バス」「バーボン人生」「逃亡者」ら、他にも多くの共作を残していく。

 身体が大きくてもシャイだった恭蔵さんと、圧倒的なエネルギーを放つ矢沢さん。そんな正反対なふたりの共通点を探すとすれば、男が望む生き方を描くことだったのかもしれない。「A Day」では男女が持つ哀しみを叙情の旋律で描きながらも、やがては幸福感に包まれるという物語になっている。その哀しい出来事を塗り替えて、幸福感へと向かわせてくれる歌詞に我々は安堵する。恭蔵さんの描きたかった世界観はそこにあったのではないだろうか。最後に残したアルバムにもそんな曲が多い。ゴスペルを感じさせてくる「Glory Hallelujaj」や「I Wish」など、子供から大人までエールを頂ける作品が収録されている。

 そういえば、マスターもいつも弱い者の味方だった。子供が大好きで、いつか「子ども食堂」をやりたいと話してくれていた。店に行くと、近所の学校帰りの男の子が我が家のように寛いでいたのを思い出す。一緒に歌えたのは多くはなかったけれど、思い出は他にもたくさんある。向こうでマスターと会えるのはいつか分からないけれど、その時は恭蔵さんの曲を皆んなで演れたらいいなと思っている。

Same Old Blues / フレディ・キング

 日本の歌謡曲や演歌などではタイトルにブルースの名称が付けられた曲がとても多い。しかしほとんどの曲は、音楽形式的に見ればブルースとは無縁の代物でもある。多くの日本人にとってブルースとは「哀愁に包まれている曲」とか「ブルーな気持ちを歌ったもの」といった意味合いであるからだ。そんな中において、フレディ・キングが歌う「Same Old Blues」は、憂いのある歌詞とコード進行が琴線に触れ易く、日本人がイメージするブルースとやらを表現しつつも、ブルース特有のフレーズも繰り出されていたりと、後に海を越えて生まれた邦楽のブルース「横浜ホンキートンク・ブルース」や「胸が痛い」などの母親のような役割も果たしていると思う。

 1934年にテキサス州に生まれたフレディ・キングは、チョクトー系インディアンの流れを持つ家庭に生まれた。彼の祖父はフレディの母親に対し「お前は、多くの人々の心をかき乱し、同世代に大きな影響を与えることになる子供を授かるだろう」との予言もしていたとか。まさに「インディアン、嘘つかない」のである。さて、フレディは6歳の頃になるとカントリー・ブルースに触れ、地元テキサスのライトニン・ホプキンスやルイ・ジョーダンらに夢中になっていった。さらに農園で働くようにもなると、アコースティック・ギターも手に入れ練習に明け暮れていく。そして1949年、先に移住していった母方の兄弟たちを追い、家族と共にシカゴへと移っていく。そして1950年代初頭のシカゴといえば、マディ・ウォーターズやハウリン・ウルフらが躍動し始めた時期でもある。ブルースの聖地へとやってきたフレディは、毎晩クラブに潜り込み、シカゴのオールスターズとでもいうべき面々との出会いを通して腕を磨いていくこととなっていくのだ。

 ところで、当時のシカゴ・ブルースを代表するレーベルと言えばチェス・レコードだ。強い憧れを抱いていたフレディは何度かチェスのオーディションを受けている。しかし、ことごとく落選してしまうのであった。チェス側にしてみれば、B.Bキングの二番煎じのようだからと言ったことらしい。それでもこの挫折がフレディを独自のスタイルへと導いていくこととなる。人生にはいい時も悪い時もあるものだが、後々に思い返してみれば悪い時こそ成功へのチケットが用意されていたりもするものだ。フレディの場合もフェデラル・レーベルとの出会いが運命を大きく変えていくこととなる。このレーベルの看板ミュージシャンだったソニー・トンプソンに気に入られ、彼のバックアップを受けることでフレディの才能が一気に開花していくからだ。大ヒットしたインスト曲「Hide Away」では、B.Bキング的なモダンなサウンドをオリジナルへと昇華させ、「友達の女房に恋をしてしまい、身が引き裂かれる思いだ」と歌った「Have You Ever Loved Woman」では、マディ・ウォーターズらシカゴ・ブルースのエロティシズムさえも解き放っている。

 やがてフレディはレコード会社を何度か移籍していくのだが、レオン・ラッセルのシェルター・レーベルでは、ブルース、ゴスペル、ソウルがミクスチャーされていて、まさに南部の音楽をミックスしたスワンプ・ロックの醍醐味も味わえる。移籍後の1stアルバム「Getting Ready…」などは名盤であり、この時期のステージを観たレッド・ツェッペリンのメンバーは、フレディの演奏に衝撃を受けすぎて、開いた口がふさがらなかったという。確かに第2期ジェフ・ベック・グループが取り上げた「Going Down」のサウンドを聴けば、ツェッペリンへと繋がっていくブルース・ロックそのものと言っても言い過ぎではないだろう。

 さてさて、フレディのセクシャルなギターは、ここでというタイミングでしゃくり上げてくれる。まるでゆっくりなドリブルからギアを上げ、一瞬で相手を抜き去っていくサッカー選手のようなフレーズだ。さらに聴き込めば、他のメンバーの音を良く聴いているのが分かってくる。音のスペースを上手く使い、メンバーたちとの会話を楽しんでいるのだ。こんな男なら会社を立ち上げていたとしても大成功していたと思う。惜しくも精力的に活動していた矢先に、出血性潰瘍と心不全により他界しているが、フレディのフレーズには、独りよがりではない優しさとリーダーシップが満ち溢れている。起業家としての彼の姿も見てみたかったと思うのは、こんな時代だからだろうか。