投稿者: SIGEN

「新しい生活様式」が始まり、ローカルバンドマンが選んだスタイルは、戦前ブルースマンと呼ばれる人達の様式美。およそ100年前に確立された音楽は、現在の状況さえも癒してくれるのではと研究中。

Death Letter Blues / サン・ハウス

 人と距離を置く生活になって、とても長い時間が過ぎたようだ。どうにかこの暮らし方にも慣れてきたが、その反面では解放し切れない心模様が騒めきあっている。人間に限らず生物は他者と関わって暮らしてきた。切り離されてしまっては自己を保つのも難しい。さらには肉体だけでなく、自分ひとりで整理をつけられない気持ちだってあるものだ。自然や社会に生かされて生きているのだから、今は贅沢は言えないのだろうが、普通に気を使わずにコンサートに出かけたり、スポーツ観戦ができるような日々が待ち遠しい。誰かの姿に救われることだってきっとあるのだから。そうそう、先日の佐々木朗希選手の投球には痺れた。待ちに待ったプロ入り後の初めての実戦登板で、首位打者の経験を持つビシエド選手からの三振のシーンは美しく、こちらの心まで解放してくれた。東日本大震災を経験し、悲しみに暮れた災害から10年。世界中からもらった勇気や希望を伝える側になると誓ってくれていたが、その恩返し以上の投球だったと思う。何度見ても嬉しい気持ちが止まらない。ありがとう。

 さて、ブルースにだって心に寄り添ってくれる作品はたくさんある。サン・ハウスの「Death Letter Blues」もそうだ。「死」をテーマにしているから重い歌詞ではあるが、力強く美しい歌だと思う。

 1902年にミシシッピーの熱心なバプティスト信者の家庭に生まれたサン・ハウスは、子供の頃から信仰心が深く、20歳で牧師になっている。当初は説教をしながらゴスペルを歌っていて、ブルースの方はというと、罪深い悪魔の音楽として忌み嫌っていたらしい。しかしある日、ブルースマンが奏でるスライド・ギターの音に驚き魅了されてしまうのだった。身近にジェイムズ・マッコイというギターを教えてくれる友達がいたこともあって、すぐに「My Black Mama」と「説教ブルース」を覚えることもできた。こうしてブルースの世界に入った彼は、順調に音楽活動を始めていったのだが、ある酒場での演奏中に客から暴行を受け、身を守るためにその相手を射殺してしまう。そして15年の刑を宣告されてしまい囚人農場に送られてしまうのだった。

 それでも幸運の女神はサン・ハウスを見放してはいなかった。正当防衛ということもあってか、1年間で釈放されたのだ。出所後にはブルースの創始者と呼ばれるチャーリー・パットンと知り合うこともできた。そしてパットンはサン・ハウスにウィリー・ブラウンを紹介し、彼らは年齢こそ違うものの親友同士になっていく。デルタ・ブルースの重要人物たちが顔を合わせていったドラマティックでロマンティックな時期だ。ちなみに、ロバート・ジョンソンにギターを教えたのも彼らだと言われている。あのクロスロード伝説では、十字路で悪魔に魂を売り渡して驚くべき技術を身につけたと伝えられているが、サン・ハウスたちの教えがベースになっているのは確かだ。ロバート・ジョンソンの演奏には、サン・ハウス的なフレーズが残されている。 

 ところでサン・ハウスが用いるチューニングはオープンGやDが多い。代表曲「Death Letter Blues」はオープンGだ。記録映像を観ると腕全体を振り下ろし、弦を叩いたりスラップのように引っ掛けてリズムを刻んだ上で、攻撃的なスライド・ギターを合体させている。ヴォーカルも鬼気迫るインパクトで、叫びのようでもあり、祈りのようでもある。そして歌詞を見てみると、相手がどうであれ愛し続ける苦しみを歌ったものが多い。その悲しみを突き破ろうとしながら歳を重ねたブルースマンは「俺に何がしてあげられる」と、その相手を思い続けていたのかもしれない。そしてその相手は愛した女たちだけではなく、パットンや、ジョンソン、ブラウンといった、先に亡くなっていった男たちにも捧げられているようだ。

 スライド・ギターひとつで、あるいはハンド・クラップだけで歌うサン・ハウスからは激しくとも癒しの波動が溢れてくる。それを聴いているこちら側の葛藤のすべてが消えてくれるわけではないが、ほっとさせてくれたり、軽くしてくれたり、もう少し頑張ってみようかと思わせてもくれている。レクイエムとは、亡くなった人が安らかに眠れるようにと神に祈るための楽曲だそうだ。それならブルースはどうだろう。少なくとも俺自身はとても助けられている。

Death Letter/Son House

ある朝、手紙が来たんだ、なんて書いてあったと思う?
こう書いてあったんだ、急げ、急げ、お前の恋人が死んじまったぞ
その日の朝,手紙が来たんだ、なんて書いてあったと思う?
こう書いてあったんだ、急げ、急げ、あの娘が死んじまったんだぞ

それで俺はスーツケースをつかんで家を出た
着いてみると、彼女は冷たい板の上に寝かされてた
俺はスーツケースをつかんで出かけた
けどなあ、着いたときには彼女はもう冷たい板の上に寝かされてたんだ

それで俺は近づいて彼女の顔を見た
この優しい娘は最後の審判が降るまでここで寝てなきゃならないんだ
俺は近づいていって彼女の顔を見た
なあ、この娘は終わりの日までここで寝てなきゃならないんだ

俺は人生で4人の女以外誰も好きにならないと思う
おふくろ、妹、あの娘、それと妻だ
俺は人生で4人の女以外誰も好きにならないと思う
おふくろ、妹、あの娘、それと妻だけだ

いや、そんなに酷い気分じゃなかったよ、太陽が沈むまでは
俺はこの手で抱きしめる相手をなくしちまったんだ
そんなに酷い気分じゃなかった、太陽が沈むまでは
なあ、俺はこの手で抱きしめる相手をなくしちまったんだ

俺は前の晩泣いてたんだ、その前の晩も一晩中泣いてた
生活を変えなきゃいけないな、もう泣かないですむように
俺は前の晩泣いてたんだ、その前の晩も一晩中泣いてた
ああ、生活を変えなきゃいけないよな、そうすりゃもう泣かないですむよな

How Long,How Long Blues / リロイ・カー

 初めから個人的な話になってしまうが、2年ほど前から頻繁に晩酌するようになっていた。けして酒は強くもなく、体質的にも合ってもいないので呑まない時期の方が長かったのだが、恩師から連絡を受けて会食することとなり、あの方にお会いするのならばと、その1週間ほど前から呑む練習を始めたのがきっかけだった。予想通りにその夜の食事は素晴らしく、それに併せて数本のワインを空けることとなった。もしも若い方でこのブログを読んでくれている方がいたなら、酒呑みの良い先輩と巡り会えたら人生が豊かになるよと伝えておきたい。メニューの選び方、食事の仕方、それに似合う酒の選び方、会話、支払いのスマートさ。それらを併せ持った人物とする食事は、彼女とのデートとも違った至福のひと時を味わえるからだ。ビールとハイボールくらいしか呑んでいなかった俺に、ワインと日本酒の楽しみ方を教えこんでくれた人生の先輩は、高級レストランと安酒場を同じように愛していた。残念なことにコロナの影響であれからお会いできてはいないが、また楽しい夜を過ごせるようにと願い今夜もまた晩酌をするってわけだ。

 それにしてもだ、毎晩のように呑む癖がついてしまってはいるが、手が震えてしまうほどアルコール依存症などにはなっていないし、休肝日を設けることだってできている。それに比べると昔のブルースマンには酒で人生を壊してしまった人たちの話が多い。いったいどれだけの量を浴びたらそうなってしまうのかが不思議でもあった。それでもアルコール過剰摂取により、30歳という若さでこの世を去ったリロイ・カーの人生を追いかけたことでその理由も見えてきた。

 1905年、テネシー州ナッシュビルに生まれたリロイ・カーは、相棒のギタリストであるスクラッパー・ブラックウェルと組み、1928年に「How Long How Long Blues」を吹き込み大ヒットを飛ばした。彼らのブルースの特徴は、都会で暮らす人々のやるせない気持ちを代弁するかのようなメランコリックなものが多く、当時の我が身を嘆くようなクラッシク・ブルースに比べ、サウンドも歌詞も軽妙洒脱でいて、それまでのものとは違っていた。

「夕刻発の列車、出てからもうどのくらい、あの娘の列車は今どこを走っている?」と、去っていった彼女を思うリロイ・カーのなんとも言えない歌声は、それまでのカントリー・ブルースなどに見られるように、去っていった女を罵るようなものではなかった。そして彼らのほとんどの曲は、相棒のブラックウェルと彼の姉であるメイ・マーロンが詩を描いていたのだが、なんとなく日本語のロックの元祖「はっぴいえんど」の松本隆さんを思い浮かべてしまう。どちらの曲の詩情も、まったく新しい世界観であり続けているからであろうか。

 とにかくブルースの長い歴史の中でも「How Long How Long Blues」はエポックメイキングなものとして取り上げられている。12小節ではなく8小節という少しだけ軽いノリのブルースは、民謡が流れていた街に、突然シティ・ポップが鳴り出したようなもので、なんとも言えない哀愁が漂うカーのピアノと歌声は、田舎を捨て都会へと向かった黒人たちの憂愁な気分とリンクしていったのだ。ブラックウェルとの相性も、どちらも窮屈にならずに補い合えるという名コンビであり、次から次へと聴衆を惹きつけたという。ファンも多く、レコードが売れて印税の額もブルースマンとしてはかなりのものだったらしい。しかし彼らはその裏でメチャクチャな生活を送ってしまってもいたのだ。

 以前に相棒であるスクラッパー・ブラックウェルのことを取り上げたことがあるのでこちらも読んで欲しいのだが、とにかく彼らが活躍していたのは禁酒法が施行されていた頃だ。しかも彼らはブートレグと呼ばれた密造酒を扱うことにも手を染めていた。つまり、工業用アルコールや怪しげな液体が混入された粗悪な酒を大量に浴びていたのだ。そんなまともじゃない酒でリロイ・カーの肝臓は徐々に衰えていった。さらにその痛みが酷くなれば、それをまぎらわすように彼は大酒を呑み続けた。1935年の春、リロイ・カーは呼ばれていたパーティー先で急性腎炎に襲われ亡くなった。その直前に口喧嘩をしてしまっていたブラックウェルは、その場には居合わせなかったという話もある。とにかく彼の死によって名コンビは失われてしまった。やがてブラックウェルはショックのあまりに落ちぶれていってしまうのだ。

 さてさて、冒頭の話に戻ろう。もしもこの2人に酒の呑み方を教えてくれる人物がいたらどうだっただろうか。「良い酒を少しづつ頂くんだよ」と諭すように一緒に呑んでくれる先輩がいたらと考えてもしまうのだ。歴史に対して、もしもの話ほど野暮なものはないのだが、リロイ・カーが亡くなったのは30歳だ。せめて10年でも長生きできていたらと考えずにはいられない。彼らのダンディズムならば、横丁にあるような酒場の歌もたくさん聴くことができただろうに。行きたい場所にもとんと行けず、逢いたい人とも逢えない不自由なご時世だからこそ、彼らの名調子をもっと聴きたかったと思ってしまうのである。

Shake Your Money Maker / エルモア・ジェームス

 1961年の夏、エルモア・ジェームスは「Shake Your Moneymaker」を吹き込んだ。しばらくして当時のダンス曲として人気となり、ジューク・ジョイントと呼ばれた安酒場などで演奏される度に「もっとやってくれ」と、熱狂した客の声に包まれたという。歌詞の方は皮肉なのか、ジョークなのか、本気なのか、まったく分からないが、”腰や尻”を振ってお金を儲けている女のことを歌っている。主人公の男はその女に惚れていたのだろうか。投げやりで皮肉たっぷりにも取れる歌詞だが、その男の悲しみもまた伝わってくる。それはまるで「朝日楼」などに描かれた女に恋をしてしまった男の”矛盾のブルース”とも呼べそうだ。

Shake Your Moneymaker
Elmore James

Shake your moneymaker Shake your moneymaker
Shake your moneymaker Shake your moneymaker
I got a girl lives up on the hill 
I got a girl lives up on the hill
Says she gonna love me but I dont believe she will 
Shake your moneymaker Shake your moneymaker
Shake your moneymaker Shake your moneymaker

さあ、お前の腰を振ってくれよ
その大事な金の成る腰を
俺には、丘の上に住む女がいる
あの丘に住む女を手に入れたんだ
あの娘は、俺を好きだって言ってる
でもそうは思えない
それでも、お前の腰を振ってくれよ
その大事な金の成る腰を

 それにしてもこの歌詞を聴きながら踊りまくったというのだから、当時のジューク・ジョイントにはどんな人種が集まっていたのだろう。もともと”ジューク”には”騒々しい”と言う意味もあるが、”娼家”のことも指している。それゆえにトラブルを抱えた男の数も多かったはずだ。酒、ギャンブル、女。それらの全てが交差する安酒場では天国気分を味わえることだろうが、その取り扱いを間違えてしまえば地獄行きの片道切符しか掴めない。厄介ごとの火種は魅力的だが、手を出すには相当の覚悟と盲目になることも必要になってくる。さらにはその快楽も長くは続かないのがいつものオチだ。それでも人は何かを求めてしまうという厄介な生き物でもある。輪廻転生が本当なのかは知らないが、もしもそうだとしたなら、いったいどれほど生まれ変われば”まとも”になれるのだろう。

 さて、エルモア・ジェームスは1918年にミシシッピ州に生まれた。10代の頃から週末はジューク・ジョイントで歌い稼ぐようになっていたというが、そこでロバート・ジョンソンに手ほどきを受けたという逸話が残っている。ミシシッピーの田舎の安酒場で出会った師匠が、酒と女とカードが大好きだったとするならば、エルモアが教えてもらったことは直伝の「Dust My Broom」だけではなかったはずだ。目の前で床を踏み鳴らし歌うロバート・ジョンソンの手から渡されたブルースには、”生々しさ”の全てが詰まっていたことだろう。もともと心臓が悪くて気の弱いエルモアが、かん高い声で火を噴くようなスライド・ギターを弾きまくるようになったのも、手渡されたブルースから逃げ出したいという叫び声だったのかもしれない。

 ところで、エルモアの代名詞とも呼ばれる、オープンD系チューニングで豪快にかき鳴らす3連符だが、ロバート・ジョンソンのスタイルから離れ、オリジナリティを確立していけた要素のひとつに、アコースティック・ギターにピックアップを取り付け、その音をアンプで増幅させたことも見逃せない。ここでひとまず2人の「Dust My Broom」を聴いてほしい。

まずはロバート・ジョンソン

そしてエルモア・ジェームス

 ロバート・ジョンソンの弾き語りスタイルと、バンドでの演奏を比較するのには無理もあるのだが、それでも完全に生まれ変わっている。ラジオの修理工だったエルモアは自分のアンプを改造し、独特のディストーション・サウンドを生み出した。当時としては豪快な歪みにぶっ飛ばされたリスナーが多く、1951年に初録音されたこの曲は大ヒットとなり、以降、このスタイルがトレードマークとなっていく。さらに、音の選び方もオープンチューニングを施しスライド・バーを使うことで、ロバート・ジョンソンとは違ってきている。エルモアの方は、”♭7″の音を使っていない3音だけで構成されたコードで弾きまくっているから、ロバート・ジョンソンの悪魔的なブルースに比べると、単純に明るい。ただそれでいて、艶かしく動いている響きも宿っている。それが逆にもがいているようで、哀れな男の歌にも聴こえてくるのだ。

 さてさて、「俺の人生は長くない」と予言するように歌っていたエルモア・ジェームスは1963年に心臓麻痺で亡くなった。45歳だった。幸せだったかどうかを人生の長さだけでは計れないが、歴史に残るミュージシャンであったことは確かなことだ。後続のブルースマンに多大な影響を与えたゴット・ファーザーのひとりとして今もフォロワーを生み出している。自分にとって大切なものは何なのか。晩年のエルモアは「The Sky Is Crying」や、ジミヘンもカバーした「My Bleeding Heart」のようなスロー・ブルースを多く演奏している。どちらも失恋の歌で恨み節にも聴こえるが、その女を愛していたことも良くわかる。またもや”矛盾のブルース”だ。抱え込んでしまったものを手放すには歌うしかなかったのだろうか。それにしてもだ、その”矛盾”を打ち破るブルースはどうしたら手に入れられるのだろう。どうやらエルモア・ジェームスのブルースは、哲学的だというか、本質ってやつを探したくなるものらしい。