投稿者: SIGEN

「新しい生活様式」が始まり、ローカルバンドマンが選んだスタイルは、戦前ブルースマンと呼ばれる人達の様式美。およそ100年前に確立された音楽は、現在の状況さえも癒してくれるのではと研究中。

Get Your Yas Yas Out / ブラインド・ボーイ・フラー

 世界最強のロックバンドの名前がマディ・ウォーターズの「ローリン・ストーン」に由来している話はとても有名だ。バンドの名前を尋ねられたブライアン・ジョーンズが、たまたま床に散らばっていたマディのレコードを手に取り、とっさにその中の収録曲を口にしたってやつだ。しかし、そのローリング・ストーンズが1970年にリリースしたライブ・アルバム「GET YOUR YAS-YAS OUT」が、ブラインド・ボーイ・フラーの曲から付けられていたことはあまり知られていない。さらに「YAS-YAS」はスラングで「お尻」である。つまり「ケツを出せ」と言う意味だったなんてことは、当時の日本の若者たちの多くは知らなかったはずだ。それでもこのアルバムに収録されている「ミッドナイト・ランブラー」のブレイク部分(5:40)では「カッチョイイ〜!」という日本人の叫び声が入っている。声の主は村八分のチャー坊だとも言われているがホントのところはどうだろう。それでもイギリスやアメリカの若者たちだけでなく、日本の若者たちもずいぶんと熱狂していたことは確かなようだ。

 さて、ストーンズよりも先に「ケツを出せ」と叫んだブラインド・ボーイ・フラーは、1908年にノース・カロライナで生まれた。ブラインドとは盲目のことだが、当時のブルースマンには他にもブラインドという名前が付いている人たちが実に多い。ブラインド・ブレイク、ブラインド・レモン・ジェファーソン、ブラインド・ウィリー・マクテル、後にレヴァランド(牧師)の称号に変わったゲイリー・デイビスもそのひとりだ。とにかく当時の黒人たちは貧しかったために、目の治療を充分に受けるだけの金がなかったのだ。そして盲目の黒人が金を得るためには、乞食か音楽や見せものをやる以外に方法は無かったようだ。

  ブラインド・ボーイ・フラーは生まれつき盲目ではなかったが、若い頃に一緒に住んでいた女が嫉妬に狂い、顔を洗う鉢にアルカリ溶液を入れたために失明して音楽で生計を立てるようになった。ギターをゲイリー・デイビスに習い、ブルースやゴスペルを街角で歌っては小銭を稼ぎ始めたという。しばらくしてレコーディングにも恵まれ100曲以上の曲を吹き込んでいる。しかし順調に見えていた矢先、彼は妻の脚を銃で撃った罪で刑務所に入ってしまう。出所後も音楽活動はできていたようだが、まもなく過度の飲酒が原因で腎臓病になり感染症を患い亡くなってしまった。33歳という若さだった。

 フラーの音楽活動期間は実質5、6年という短い間だったが、彼の音楽は街角でもホーム・パーティーでも人気だった。その要因のひとつに、彼の歌にはユーモラスというかダブルミーニングの歌が多いことがあげられている。有名なところでは「Truckin’ My Blues Away」だろう。最初の「Tr」部分を「F」に置き換えれば、すぐさまその意味が分かる。さらには「What’s That Smells Like Fish」「お前のアソコは生臭い」ってなのもある。極め付けは「Sweet Honey Hole」か。と、ここで彼の名誉のために断っておくが、こんなホウカム・ナンバーばかりを歌っていたわけでは決してない。「Step It Up and Go」のようにコード進行に対してのアプローチが革新的な楽曲は他にもかなりある。トラブルだらけの人生だった様子を見ると無茶苦茶な感じのフラーだが、音楽に対しては凄く熱心だったようだ。

 それでも彼が選んだポジションは、師匠のゲイリー・デイビスのゴスペルに対して真逆のポジションだ。牧師として生きることに抵抗があったからなのか、あるいはレコードを売りイベントやパーティーを盛り上げて歌う方が金になると思ったからなのかは分からない。ただ日本人である自分だから言えることがある。それは二人の歌詞の内容は対称的でも、どちらの音楽にも癒し効果があるということだ。歌の意味を分からずに聴いていた時にでさえ、ゲイリー・デイビスには哀しみを包み込む力を感じたし、フラーには突き抜けていくカッコよさがあった。そしてそれらが自分の抱えた悩みを軽くしてくれていた。

 改めて音楽ってすごい。国、人種、時代、何にも囚われないで救ってくれる。生きる意味を問いかけたくなる時ってのは順調にいってる時じゃない。絶望を抱えたポジションに落ちた時だ。そんな時、一瞬でも生きる意味を体感できる音楽が流れていてくれたらラッキーだ。フラー自身は他人のために歌い始めたわけではなかったかもしれないが、パーティーでハメを外しているうちに他人を元気付けることに生きる意味を見つけたのかもしれない。例えそれがくだらないだとか言われたとしても、それ以上にたくさんの人たちを笑顔にしてきたはずなのだ。フラーはやっぱりカッコイイ。

Ain’t Nobody’s Business / ベッシー・スミス

 ベッシー・スミスの半生を描いたTV映画を見た。映像も美しく、1920年代頃の衣装もとても良かった。何よりもブルースを楽しめた。しかし途中で何度か胸が苦しくなってしまい、休憩を入れながらの鑑賞だった。彼女の生涯についてはバイセクシャルだったことや、乗車中の車が事故に見舞われてしまい、黒人であるがために病院をたらい回しにされて亡くなった話なども知っていたから、ある程度の悲劇的な部分は覚悟していた。映画の中では貧しかった幼少の頃から、彼女の破天荒な部分、人種差別も当然のように描かれている。しかしミゾオチの部分が重苦しく痛むような感覚を得たのはそういった場面からではなかった。複雑な人間関係が交差する中でのやるせない気持ち、行き場のない想いに、本当に自分が体験したかのように身体が反応してしまったのだ。

 ベッシー・スミスは1894年4月15日に生まれ、1937年9月26日に43歳でこの世を去った。その間に多くのブルースを吹き込み巡業し歌った。彼女は彼女と同じ人種の救済者であり代弁者だった。強烈に強い酒を好み、プライドをかけてケンカも躊躇しなかった。男とのセックス、女との情事、家族との確執、彼女の人生はいつも危ういものだった。師匠的存在のマ・レイニーからは自分自身のことを歌わずに「お客を知ることだ」と、エンターテイナーとしてあるべき姿を教えられていたのだが、ベッシー・スミスは彼女自身に降りかかってきたブルースを最期まで歌ったのだ。

 いつしかブルースの女王とまで呼ばれた彼女の代表曲に「Ain’t Nobody’s Business」という曲がある。1923年にピアノだけを頼りに淡々と歌われている。後の1949年にジミー・ウィザースプーンがカバーしR&Bチャート1位を獲得。そこからブルースのスタンダードとなり、他にも多くのアーティストにカバーされていく。ただしベッシー・スミスが歌うバージョンは「いちいち批判されたってかまやしない」「どう言われてもしたいことをするわ」と腹をくくったフレーズを歌うヴァース部分があり、その後で本編のコーラスを繰り返していく。それにしてもこんなブルースの歌詞を見つけると、次のロック世代へ繋がる架け橋が既に架けられていたことに驚いてしまう。

 労働歌から生まれたブルースは、メッセージソングと言うよりも個人的な憂いを歌ったものだ。自分や周りを奮い立たせようとしているよりも、トラブルを笑いに置き換えたりして何とかやり過ごそうとしている。悩み、苦しみ、不満、怯え、それらの落ち込みを一瞬だけでも忘れたかったのだ。いつの日か不自由さの無い時代はやって来るのだろうか。残念ながらベッシーと同じく自分が生きている間にはやって来そうにない。その代わりに理不尽なこと、許せないこと、やるせない気持ちはまたやって来るだろう。そしてその度にミゾオチは痛くなるなのだろう。それでも好きにやることを諦めないでいたらそれでいい。

 ところで今の若い世代はどんな歌詞の歌を聞いているのだろう。真っ先に思い浮かぶのは高校生の息子が気持ち良さそうに歌っているアニメソングだ。最初は笑いをこらえながら聞いていたりもしたが、最近はそうかと感心することも少なくない。さらには香港の民主活動家、周庭さんが欅坂46の「不協和音」を拘置所内で思い浮かべてたとのニュースも流れてきた。「Ain’t Nobody’s Business」の「私の勝手よ」と「不協和音」の「抵抗と自由を」の間には隔たりもあるだろう。それでもどちらも周りに対して屈していないところは一緒だ。そこにある悩みや苦しみを抱えて生きる人の為のブルースは、今もこうして流れ続けている。

Shine On Harvest Moon / レオン・レッドボーン

 「100年前の世界からやってきた」とも称される米国ルーツ音楽博士のレオン・レッドボーン。パナマ帽に古めかしいスーツ、そしてサングラスに口髭と、トボケた田舎紳士風の男はコメディアンにも見えてくる。歌声だってボソボソとしていて頑張る気配はまったくなし。ライブ中のジョークだって本当にウケているのかさえ怪しく映る。しかしながら、彼の弾き語りは実にロマンチックでありセクシーだ。

 残念なことに、自身については多くを語らずに亡くなってしまったレッドボーンは今でも謎の多い人物だ。なんとなく分かってきた事は、1949年生まれで、70年代中頃からカナダのトロントのナイトクラブやフェスティバルで唄い始めたということ。戦前のニューオルリンズあたりからタイムスリップしてきたかのように現れ、鼻歌のような弾き語りで大昔のアメリカ民謡、ジャズ、カントリー、ブルーズなど、1910年代から20年代あたりの音楽を再生しまくったこと。そのまま時が止まっているかのような演奏でTV番組にまで出演してしまい、人気者にまで登りつめたことなどだ。

 この「世界一無名な有名音楽家」は、写真の出来映え次第ではお洒落なフランス人のおじさまにも見ないこともないのだが、酒を片手に舞台袖から登場したまま呑気に飲み始めてしまったり、演奏したかと思えば途中で止めてしまったりと、やはり心は戦前のブルースマンたちのようだ。それでも彼の演奏は癖になる。それはまるで子どもの頃に夢中になったTVアニメのように、ニヤニヤと身体にへばりつくのだ。アルバムの方も1975年の「オン・ザ・トラックス」から始まり、その後も多くのアルバムを出している。結構な頻度でリンゴ・スターやドクター・ジョンなど、レジェンドなゲストたちを迎えながら、すべて同じように戦前のオールドタイムな曲を当たり前のように演奏し、これまた当たり前のように昇華させている。先に結論を述べてしまえば、凄腕のスナイパーなのだ。

 それにしてもだ、彼をここまで虜にさせた当時の音楽には何が宿っていたのだろう。ここからは完全に個人的な妄想なのだが、まずレッドボーンは、職人気質を持ち合わせた科学者タイプの人物だったのではないだろうか。単純にギターが上手くなりたいから始まり、音楽をもっと知りたいって気持ちのまま掘り下げていくうちに、ついにはルーツ・ミュージックへと辿り着いたと思えてしまうのだ。

 1977年のセカンドアルバム「Double Time」ではとても古いジャズ・ナンバー「Shine On Harvest Moon」を取り上げている。この曲はローレル&ハーディーが歌うように、トーキー映画が良く似合う曲なのだが、レッドボーンのそれを聴くと、こちらの方が正しい取り扱いだと思えてしまう程に耳に馴染んでくる。ここまでのアレンジを完成させるためには相当の時間を浪費してきたはずに違いない。ま、本人にしてみれば、ムダな時間を費やしてきたなどとは微塵も思っていないかもしれないけれど。とにもかくにも知りたかったのだと思う。自分が好きになった音楽、ブルースやジャズのことを。そしてその法則を解析して自由になりたかったのではないだろうか。

 何かを上手くなるってことは、自由を得ることとも言える。そしてブルースやジャズは、その枠組みさえも通り抜けようとする気構えも許容している音楽だ。何が正しいとかダメだとか言うよりも、チャンレジしてみること、正直になること、そして何よりもカッコつけたい瞬間までも受け入れてくれる懐がブラックホールのように存在している。単純に古い音楽を好きになったから始まったかもしれないレッドボーンの探求の旅は、いつしか最先端の研究の旅へと移り変わっていったのではないだろうか。それも「勝たなくてはならない」と、重い足かせを付けられたアスリートのようではなく、飄々と散歩する呑気なおじさんのまま突き進んでいったのだと想像したい。汗と涙の後にも解き放たれる空間はやってくるものだけれど、身の丈に合ったまま育つ生き方の方が長く続けられそうに思う。そして旅の途中で出会う人から「なんかそれいいね」と声を掛けられたら最高だ。レッドボーンの鼻歌のように。

 *日本語参考 川畑文子 / 三日月娘