Minnie the Moocher / キャブ・キャロウェイ

 1920年から1933年まで、アメリカでは禁酒法が施行され、酒の製造、販売、輸送が禁じられた。とはいえ、その間も町から酔っ払いが消えることは無かった。スピークイージーと呼ばれたもぐり酒場から会員制の秘密クラブまでもが大流行したからだ。その酒場を仕切り、裏で糸を引いていたのはギャングたちと賄賂にまみれた政治家たちだった。つまりその頃の夜の社交場はとんでもない無法地帯でもあったのだ。シカゴではギャングスターのアル・カポネ。カンザスシティでは市議会議員でもあるトム・ペンダーガストなど、ギャングも政治家も入り乱れての宴が各地で繰り広げられていた。密造酒、売春、麻薬と、ろくでもないことで得た金が飛び交っていたのである。さらにその傾向は大都市になる程に大きくなり、ニューヨークでは禁酒法が施行される前の段階で1万5000軒ほどだった酒場が激増し、もぐり酒場が10万軒にもなったともみられている。

 さて、1920年代からジャズ文化の中心地に躍り出たのはニューヨークだ。歌や踊りのバックに流れる音楽として、秘密の高級クラブなどで高い人気を誇ることになる。ルイ・アームストロングがニューヨークに移り住み、フレッチャー・ヘンダーソンが彼を自分のバンドに引き抜いた。デューク・エリントンもシーンに登場し、彼らの率いるオーケストラはハーレムの有名なナイトスポット、コットン・クラブのお抱えバンドになったのを契機に一気に広まっていく。そしてこのクラブのオーナーはもちろんギャングスター。血みどろの抗争をしたカポネも、ギャングと繋がり私腹を肥やしたペンダーガストも、熱心なジャズ愛好家であったが、コットン・クラブのオーナーであるオウニー・マドゥンもそのひとりであり、多くのジャズメンを引き抜き、客にヤミの酒とそれに伴うサービスを提供しては繁盛していくのであった。

 高級サロンだったコットン・クラブは露出度の高い衣装で出演するコーラス・ガールにそれを支えるジャズのビックバンドが売りだった。毎晩のように着飾ったセレブリティたちが集い、最高峰のエンターテインメントを楽しんでいた。あのチャップリンまでもが通い詰めていたというから素晴らしいショーの数々だったのだろう。その様子は1984年にリチャード・ギアが主演した映画「コットン・クラブ」でもうかがうことができる。しかしながら、実際のコットン・クラブは、スタッフと演奏者は全て黒人であり、顧客の白人を盛り上げるためのナイトクラブであった。リチャード・ギアのような白人の演奏家が交わることは無かったのだ。それにしても禁酒法によりギャングが莫大な利益を上げるようになるとは誰もが予想しなかったことだろう。禁酒法案を推進した人々は、これでアルコールの乱用による争いごとが減ると信じきっていたはずだ。しかし皮肉なことに、もぐり酒場は増え続け巨大な犯罪組織が町を覆っていくのであった。

 いっぽうで、ジャズはこの時代に大きく開花していく。ギャングが得たヤバイ金がチップとなってジャズメンの懐を膨らませてくれたからだ。デューク・エリントンの後にコットン・クラブのお抱えバンドリーダーになったのはキャブ・キャロウェイ。彼のようなエンターテイナーなら、ワンステージでどれだけ稼ぎまくったのだろうか。ついつい膨らんだポケットを想像してみたくなる。ちなみに、映画「コットン・クラブ」にはキャブのそっくりさんが出演していて当時の熱狂ぶりを再現している。

 そしてホンモノが出演した映画と言えば、1980年にジョン・ランディスが監督した映画「ブルース・ブラザーズ」だろう。孤児だったジェイクとエルウッド達の面倒をみてくれたカーティス役で登場し、彼らがライブコンサートに到着するまでの時間稼ぎとして「Minnie the Moocher」を歌っている。この映画で初めてキャブの存在を知ったのだが、動くスキャット唱法を初めて見た時には驚きと楽しさがいっぺんにやってきたものだ。聴衆の尊敬を集めていることは会場の反応から伝わってきていたし、今になって見返して見ると、ギターのスティーヴ・クロッパーも、ベースのドナルド・ダック・ダンも、とにかくバンドのメンバー全員が笑顔だ。きっと撮影も関係なしにキャブとの演奏を楽しんでいたのだろう。

 さて、キャブの代表曲である「Minnie the Moocher」は、コットン・クラブで初めて歌われ大ヒットになっていく。最初の晩に演奏された時、クラブの客は6回ものアンコールを要求したとか、スキャットの部分は歌詞を忘れてしまったので仕方なく「ハイデホー」とやってしまったら、バンドがそのフレーズを追いかけてきて、次に客が真似をして出来上がった。なんて逸話も残されている。このコール&レスポンスはブルースにも見られる形式だが、キャブの場合も毎回アドリブのため違っているから面白く、多分コットン・クラブは毎晩お祭り騒ぎだったはずだ。そして気になってくるのは歌詞の方だが、レコーディングされたこの歌は途中までしか歌われていない。じつは当時のSP盤には録音時間の制約があったために最後の7番までは歌えなかったのだ。

 1番から4番までの歌詞の内容は、ミニーという踊り子がスモーキーという名のジャンキーに恋をしてしまうところから始まる。彼女はドラッグのヤリ方までも仕込まれてしまうのだが、気持ちよくトリップして金持ちになった夢を見ているところで終わっている。レコーディングされているのはここまでだ。しかし続きを調べてみると、ドラッグでぶっ飛んでいたミニーとスモーキーは警察の護送車にぶち込まれてしまうのだった。ミニーは保釈してくれるようにと金をスモーキーに渡したのだが、彼はミニーをほっぽり出し、自分だけとんずらしてしまった。哀れなミニーは説教をしにきた助祭に身体をくねらせ助けを求めたが、ついには草葉の陰に横たわってしまった。ミニーはいい娘だったが、みんなが酷い目にあわしたんだ。かわいそうなミニー。というオチになっている。

 この歌は最後まで歌われることで物語が成立するものだったと思うし、コットン・クラブで最後まで聴いていた人にはレコードでは物足りなかっただろう。アドリブの多いキャブのような人の場合は、その日の客の様子でも歌詞を変えていくだろうから、SP盤から今のDL状況に変わろうが、ライブを体験しなくちゃ語れない部分も多いのだと思う。禁酒法時代に生まれたかったとまでは言わないが、彼の泥臭いまでの熱と洗練されたステージは見てみたかった。いっしょに「ハイデホー」とやれたら、しばらくは笑いが止まらないほどに愉快だったであろう。当時から100年近くも経っているが、今こそ同じ場所で笑いあえることが必要な時代なだけに、彼のようなエンターテインメントがこれからも続くことを願っている。