月: 2020年8月

Shine On Harvest Moon / レオン・レッドボーン

 「100年前の世界からやってきた」とも称される米国ルーツ音楽博士のレオン・レッドボーン。パナマ帽に古めかしいスーツ、そしてサングラスに口髭と、トボケた田舎紳士風の男はコメディアンにも見えてくる。歌声だってボソボソとしていて頑張る気配はまったくなし。ライブ中のジョークだって本当にウケているのかさえ怪しく映る。しかしながら、彼の弾き語りは実にロマンチックでありセクシーだ。

 残念なことに、自身については多くを語らずに亡くなってしまったレッドボーンは今でも謎の多い人物だ。なんとなく分かってきた事は、1949年生まれで、70年代中頃からカナダのトロントのナイトクラブやフェスティバルで唄い始めたということ。戦前のニューオルリンズあたりからタイムスリップしてきたかのように現れ、鼻歌のような弾き語りで大昔のアメリカ民謡、ジャズ、カントリー、ブルーズなど、1910年代から20年代あたりの音楽を再生しまくったこと。そのまま時が止まっているかのような演奏でTV番組にまで出演してしまい、人気者にまで登りつめたことなどだ。

 この「世界一無名な有名音楽家」は、写真の出来映え次第ではお洒落なフランス人のおじさまにも見ないこともないのだが、酒を片手に舞台袖から登場したまま呑気に飲み始めてしまったり、演奏したかと思えば途中で止めてしまったりと、やはり心は戦前のブルースマンたちのようだ。それでも彼の演奏は癖になる。それはまるで子どもの頃に夢中になったTVアニメのように、ニヤニヤと身体にへばりつくのだ。アルバムの方も1975年の「オン・ザ・トラックス」から始まり、その後も多くのアルバムを出している。結構な頻度でリンゴ・スターやドクター・ジョンなど、レジェンドなゲストたちを迎えながら、すべて同じように戦前のオールドタイムな曲を当たり前のように演奏し、これまた当たり前のように昇華させている。先に結論を述べてしまえば、凄腕のスナイパーなのだ。

 それにしてもだ、彼をここまで虜にさせた当時の音楽には何が宿っていたのだろう。ここからは完全に個人的な妄想なのだが、まずレッドボーンは、職人気質を持ち合わせた科学者タイプの人物だったのではないだろうか。単純にギターが上手くなりたいから始まり、音楽をもっと知りたいって気持ちのまま掘り下げていくうちに、ついにはルーツ・ミュージックへと辿り着いたと思えてしまうのだ。

 1977年のセカンドアルバム「Double Time」ではとても古いジャズ・ナンバー「Shine On Harvest Moon」を取り上げている。この曲はローレル&ハーディーが歌うように、トーキー映画が良く似合う曲なのだが、レッドボーンのそれを聴くと、こちらの方が正しい取り扱いだと思えてしまう程に耳に馴染んでくる。ここまでのアレンジを完成させるためには相当の時間を浪費してきたはずに違いない。ま、本人にしてみれば、ムダな時間を費やしてきたなどとは微塵も思っていないかもしれないけれど。とにもかくにも知りたかったのだと思う。自分が好きになった音楽、ブルースやジャズのことを。そしてその法則を解析して自由になりたかったのではないだろうか。

 何かを上手くなるってことは、自由を得ることとも言える。そしてブルースやジャズは、その枠組みさえも通り抜けようとする気構えも許容している音楽だ。何が正しいとかダメだとか言うよりも、チャンレジしてみること、正直になること、そして何よりもカッコつけたい瞬間までも受け入れてくれる懐がブラックホールのように存在している。単純に古い音楽を好きになったから始まったかもしれないレッドボーンの探求の旅は、いつしか最先端の研究の旅へと移り変わっていったのではないだろうか。それも「勝たなくてはならない」と、重い足かせを付けられたアスリートのようではなく、飄々と散歩する呑気なおじさんのまま突き進んでいったのだと想像したい。汗と涙の後にも解き放たれる空間はやってくるものだけれど、身の丈に合ったまま育つ生き方の方が長く続けられそうに思う。そして旅の途中で出会う人から「なんかそれいいね」と声を掛けられたら最高だ。レッドボーンの鼻歌のように。

 *日本語参考 川畑文子 / 三日月娘

Tomorrow Night / ロニー・ジョンソン

 随分と長いこと技術職で喰いつないできた。振り返りたくはないのだが、時折ふとした瞬間に思い出すことがある。それは残念なことに恥ずかしい事件の数々だ。もちろん手前味噌ながら、素晴らしい出来栄えの仕事もしてきたつもりだ。それなのに思い返す多くの出来事は失敗と苦悩の方が実に多い。ホントにやれやれなのだ。どの分野でもプロと呼ばれる人たちは自分の技術と引き換えに報酬を得るのだが、どんなに高額のギャランティだとしても、それを安いと思わせる程の腕まえを持つ人物は限られる。自分もそうありたいと願ってはいるが、いつかその時が訪れてくれるのだろうか。せめて今は報酬以上のことはできるように準備だけはしておこう。後悔のないように。

 さて、およそ100年前のプロ中のプロと言えばロニー・ジョンソンだ。アメリカン・ミュージックを語る上で欠かせない原点の一人であるからでだけではなく、1925年から1970年に亡くなるまでの45年間に相当の数のレコーディングをこなしている。ブルース、ジャズ、ラグタイムにフォークに、ポップスと、様々なテイストを取り込んだギタースタイルは、音楽的にもテクニック的にも当時の最先端の音楽だ。さらには洗練された華麗なギターフレーズに甘いボーカルと、リスナーを心地よくさせるエンターテイメント性まで持っていたのだ。売れっ子にならないはずがない。

 1894年、音楽一家に生まれたロニーは、幼少の頃からギターやヴァイオリンに親しんでいた。『僕は正規の教育は一切受けていないんだけど、全てのことは親父から学んだよ。日常の読み書きも、音楽のことも』全てのことは親父から学んだというだけあって、10代後半には父親のストリングバンドに入ってバンケットやウェディングパーティで演奏していた。まさにミュージシャンズ・ミュージシャンになる運命だったようだ。

 しかし1919年、巡業先の英国から帰国後、ロニーと年上の兄ジェームスを残して、家族全員がインフルエンザで亡くなるという悲劇に見舞われている。現代のコロナ禍との類似が指摘されるスペイン風邪だ。当時のパンディミックは、第一次世界大戦の中でアメリカ軍の欧州派遣によって世界中にばら撒かれることになったのだが、コロナ騒動の発端にしてもウィルス戦争という噂話も出ている。とにもかくにも戦争はダメだな。

 さて、その後ロニーは兄とデュオを組み、米国各地を放浪しながら音楽で生活していた。1925年には結婚もし、妻メアリーとも音楽の行動を共にしながらブルースコンテストで優勝し、オーケーレコードでのレコーディングのチャンスを掴んでいる。驚くことに1932年までに130曲をレコーディングしたと言われている。ま、その頃のブルースは歌詞を少し変えただけとかで、同じような曲も多かったとは思うが、当時の環境で130曲というのはものすごい。どれだけ人気と実力を兼ね備えていたのだろう。ベッシー・スミスとのツアーや、ルイ・アームストロングとの共演。さらにはデューク・エリントンとも共演していることから分かるように、凄腕のギタリストとして人気があったロニーのスタイルは、単弦奏法でアドリブ・メロディを弾くというスタイル。コードでバッキングをすることが多かったギターに、メロディをのせたアドリブソロを展開したというわけである。まさにその後のジャズ・ギターの先駆けとなるものであったというわけだ。

 ところで、彼の音楽はブルースとジャズを行き来していたと形容されているが、それらを噛み砕いたスウィートなポップス曲も忘れてはならない。1948年にリリースした「Tomorrow Night」ではチャートの1位にもなっている。しかも7週連続ナンバーワンという大ヒットだった。演奏を聴いてみると、時折早いパッセジーも魅せてくれるが、「Playing With The Strings」での曲芸の域に達するギターフレーズなどから比べると、甘ったるいお菓子のようでもある。実際にキングレコード会社の重役達も、なよなよしたセンチメンタルな歌詞にも反対で、売れそうにないと判断していたらしい。しかし大衆は違った。白人でさえも飛びついたのだ。音楽に限らずに『いいもの』『ココロ震えるもの』にはシンプルな旋律が宿っているものが多い。テクニックだけでは感動を呼び起こせないということなのだろう。

 晩年のロニーはミュージックシーンから姿を消していたのだが、61歳の時にブルースとジャズが交差する名盤「Blues And Ballads」で復活している。これ程の癒しはないのではと思えるほど勇気づけられ、また最近よく聞いているのだが、ブルースとジャズを繋いできた彼だからこそ成せた技は、脈々と受け継がれてきた豊饒なアメリカンミュージックだ。ロバート・ジョンソン、T.ボ-ン・ウォーカー、B.B.キングといったブルーズマンだけでなく、チャ-リ-・クリスチャンやジャンゴ・ラインハルトといったジャズ・ギタリストにも影響を与えた偉大なギター・マスターが行き着いた場所は、余韻という静寂な場所だったのかもしれない。

 誰もが後悔のない人生を送りたいと願っていることだろう。人生最後の夜は何を想うのだろうか。死から生還した人に出会ったことがないからアンケート調査はできないが、ロニーが行き着いた余韻のように終えられたらと答える人は多いのかもしれない。さてさて、最後がいつになるか分からないが、その余韻を迎えるには、まだまだしんどいこともやり過ごしていくしかないようだ。ブルースはまだまだ止まらない。

Nobody Knows You When You’re Down and Out /スクラッパー・ブラックウェル

 ブルースマンを象徴する人物を上げろと言われれば、ロバート・ジョンソンが必ず上位にランクインされると思うが、そのイメージは『悪魔と取引して凄腕のギタリストになった』である。けしてミュージシャンとして努力した姿は思い描かないのがフツウだ。昼間から酒を浴びてはギャンブル三昧、女の部屋も自由に渡り歩くなど、「練習などしなくても歌もギターも簡単にキメテみせるぜ」がまかり通ってしまっている。自分もどれだけ悪魔に願ったことだろう。しかし何度願ってもそんな事はありえないのだ。

 さて、努力家のブルースマンだったという形容詞まではついていないが、スクラッパー・ブラックウェルは独学でギターを学び凄腕になったとされている。16人兄弟だった彼だが、小さい頃には葉巻の化粧箱にマンドリンのネックを付けて針金を張り、ギターを弾き始めたというエピソードも残っている。また兄はヴァイオリンを弾いていたというところから、家庭はそれなりに裕福だったのかもしれない。優しい家族に囲まれながら手作りギターで練習していたとしたならば、ほっこりと安心もしてしまう。

 それでも楽器を自由に操るのはとても難しい。さらにはブラックウェルが生まれたのは1903年だ。いくらギターを夢中になって弾き始めたとしても、今のように情報を取り入れる環境ではなかったことを考えると、やはり身近に音楽に詳しい人物が存在したのではないだろうか。晩年のソロアルバムではピアノでの弾き語りもこなしてしまう彼の姿からも、あながち的外れな想像でもないと思う。ま、ピアノに関しては相棒だったピアノマンのリロイ・カーからの影響かもしれないが、それでもカーとの歴史的な出会いを引き寄せるだけの力をブラックウェルは持ち合わせていたのだ。けして悪魔と取引して上手くなった訳ではない。

 と、ここまでならばブルースマンの印象も随分と和らぐところなのだが、やはり伝説のブルースマンには光もあるが影もある。禁酒法(1920~1933)がまだ施行されていた頃、ブラックウェルは密かに醸造したウィスキーを売りさばく事を生業としていた。しかも相当に当てていたらしく、リロイ・カーからレコーディングの仕事を誘われてもかなり渋っていたらしい。趣味として音楽を愛したかったのかもしれないが、禁酒法という制約の裏でぶくぶくと肥えていたのはギャング達だ。ヤバイ仕事で手に入る金の大きさから比べたら、金の匂いがしないミュージシャンに魅力を感じないどころか、食っていけないと本気で思ったはずだ。

 後にジミー・コックスの「Nobody Knows You When You’re Down and Out」を吹き込むブラックウェルだが、金を手にした男が落ちぶれていく姿を歌った歌詞の中には「金を持っていた時には仲間を引き連れ大盤振舞いで」というくだりがあり、その後の「密造酒やシャンパンを飲みまくった」という部分を告白するように歌っている。そうそう余談だが、ここに痺れたのはクラプトンも一緒だと確信している。二人の演奏を聴き比べて欲しい。アンプラグドで歌うクラプトンの発音はブラックウェルにそっくりなのだ。

 絶頂期のブラックウェルはリロイ・カーが亡くなった後で表舞台からは姿を消してしまっている。しかしストーンズやクラプトン、キンクスなどを中心に英国の若者たちが巻き起こしたブルース・ブームが引き金となって55歳でカムバックしている。けれども実際に再び発見された時には、彼は甥の家で極貧の生活を送っており、ギターすら所持していなかったらしい。まさに落ちぶれていたのだ。それでも彼を見かけた人がギターとビールを渡すと、素晴らしい歌声とギターでブルースを聴かせてくれたという逸話も残ってる。

 リアルに落ちぶれた男の歌を歌ったブルースマンは何を思っていたのか。切なくもなるが、それでも希望という想像はいつだって持てる。なぜなら、自分の人生の評価は自分自身で採点したいものだから。世間には落ちぶれたように見えたとしても、本人はブルースに癒されていたと願いたい。それどころか、また一発当ててミリオネア…。いや、ビリオネアまでも狙っていたかもしれない。超富裕層と呼ばれるビリオネアのミッションは「血を絶やさない」こと。つまり、「永続的な存続」ということである。ブルース界にはこのビリオネアたちが実に多い。その証拠にブルースの遺伝子を繋いでいる子供たち、孫、ひ孫たちは、ジャンルを超えて今も活躍中だ。

 1962年の秋、59歳のスクラッパー・ブラックウェルは、2発の銃弾によって命を奪われた。かのボブ・ディランをして「俺たちの音楽を辿った先は皆、スクラッパー・ブラックウェルに通じている」そしてさらに「彼は、遥か多くの評価をうけるべき偉大なるミュージシャンだった」と言わしめた伝説のギタリストだった。

*日本語参考 憂歌団 /ドツボ節