カテゴリー: スクラッパー・ブラックウェル

How Long,How Long Blues / リロイ・カー

 初めから個人的な話になってしまうが、2年ほど前から頻繁に晩酌するようになっていた。けして酒は強くもなく、体質的にも合ってもいないので呑まない時期の方が長かったのだが、恩師から連絡を受けて会食することとなり、あの方にお会いするのならばと、その1週間ほど前から呑む練習を始めたのがきっかけだった。予想通りにその夜の食事は素晴らしく、それに併せて数本のワインを空けることとなった。もしも若い方でこのブログを読んでくれている方がいたなら、酒呑みの良い先輩と巡り会えたら人生が豊かになるよと伝えておきたい。メニューの選び方、食事の仕方、それに似合う酒の選び方、会話、支払いのスマートさ。それらを併せ持った人物とする食事は、彼女とのデートとも違った至福のひと時を味わえるからだ。ビールとハイボールくらいしか呑んでいなかった俺に、ワインと日本酒の楽しみ方を教えこんでくれた人生の先輩は、高級レストランと安酒場を同じように愛していた。残念なことにコロナの影響であれからお会いできてはいないが、また楽しい夜を過ごせるようにと願い今夜もまた晩酌をするってわけだ。

 それにしてもだ、毎晩のように呑む癖がついてしまってはいるが、手が震えてしまうほどアルコール依存症などにはなっていないし、休肝日を設けることだってできている。それに比べると昔のブルースマンには酒で人生を壊してしまった人たちの話が多い。いったいどれだけの量を浴びたらそうなってしまうのかが不思議でもあった。それでもアルコール過剰摂取により、30歳という若さでこの世を去ったリロイ・カーの人生を追いかけたことでその理由も見えてきた。

 1905年、テネシー州ナッシュビルに生まれたリロイ・カーは、相棒のギタリストであるスクラッパー・ブラックウェルと組み、1928年に「How Long How Long Blues」を吹き込み大ヒットを飛ばした。彼らのブルースの特徴は、都会で暮らす人々のやるせない気持ちを代弁するかのようなメランコリックなものが多く、当時の我が身を嘆くようなクラッシク・ブルースに比べ、サウンドも歌詞も軽妙洒脱でいて、それまでのものとは違っていた。

「夕刻発の列車、出てからもうどのくらい、あの娘の列車は今どこを走っている?」と、去っていった彼女を思うリロイ・カーのなんとも言えない歌声は、それまでのカントリー・ブルースなどに見られるように、去っていった女を罵るようなものではなかった。そして彼らのほとんどの曲は、相棒のブラックウェルと彼の姉であるメイ・マーロンが詩を描いていたのだが、なんとなく日本語のロックの元祖「はっぴいえんど」の松本隆さんを思い浮かべてしまう。どちらの曲の詩情も、まったく新しい世界観であり続けているからであろうか。

 とにかくブルースの長い歴史の中でも「How Long How Long Blues」はエポックメイキングなものとして取り上げられている。12小節ではなく8小節という少しだけ軽いノリのブルースは、民謡が流れていた街に、突然シティ・ポップが鳴り出したようなもので、なんとも言えない哀愁が漂うカーのピアノと歌声は、田舎を捨て都会へと向かった黒人たちの憂愁な気分とリンクしていったのだ。ブラックウェルとの相性も、どちらも窮屈にならずに補い合えるという名コンビであり、次から次へと聴衆を惹きつけたという。ファンも多く、レコードが売れて印税の額もブルースマンとしてはかなりのものだったらしい。しかし彼らはその裏でメチャクチャな生活を送ってしまってもいたのだ。

 以前に相棒であるスクラッパー・ブラックウェルのことを取り上げたことがあるのでこちらも読んで欲しいのだが、とにかく彼らが活躍していたのは禁酒法が施行されていた頃だ。しかも彼らはブートレグと呼ばれた密造酒を扱うことにも手を染めていた。つまり、工業用アルコールや怪しげな液体が混入された粗悪な酒を大量に浴びていたのだ。そんなまともじゃない酒でリロイ・カーの肝臓は徐々に衰えていった。さらにその痛みが酷くなれば、それをまぎらわすように彼は大酒を呑み続けた。1935年の春、リロイ・カーは呼ばれていたパーティー先で急性腎炎に襲われ亡くなった。その直前に口喧嘩をしてしまっていたブラックウェルは、その場には居合わせなかったという話もある。とにかく彼の死によって名コンビは失われてしまった。やがてブラックウェルはショックのあまりに落ちぶれていってしまうのだ。

 さてさて、冒頭の話に戻ろう。もしもこの2人に酒の呑み方を教えてくれる人物がいたらどうだっただろうか。「良い酒を少しづつ頂くんだよ」と諭すように一緒に呑んでくれる先輩がいたらと考えてもしまうのだ。歴史に対して、もしもの話ほど野暮なものはないのだが、リロイ・カーが亡くなったのは30歳だ。せめて10年でも長生きできていたらと考えずにはいられない。彼らのダンディズムならば、横丁にあるような酒場の歌もたくさん聴くことができただろうに。行きたい場所にもとんと行けず、逢いたい人とも逢えない不自由なご時世だからこそ、彼らの名調子をもっと聴きたかったと思ってしまうのである。

Nobody Knows You When You’re Down and Out /スクラッパー・ブラックウェル

 ブルースマンを象徴する人物を上げろと言われれば、ロバート・ジョンソンが必ず上位にランクインされると思うが、そのイメージは『悪魔と取引して凄腕のギタリストになった』である。けしてミュージシャンとして努力した姿は思い描かないのがフツウだ。昼間から酒を浴びてはギャンブル三昧、女の部屋も自由に渡り歩くなど、「練習などしなくても歌もギターも簡単にキメテみせるぜ」がまかり通ってしまっている。自分もどれだけ悪魔に願ったことだろう。しかし何度願ってもそんな事はありえないのだ。

 さて、努力家のブルースマンだったという形容詞まではついていないが、スクラッパー・ブラックウェルは独学でギターを学び凄腕になったとされている。16人兄弟だった彼だが、小さい頃には葉巻の化粧箱にマンドリンのネックを付けて針金を張り、ギターを弾き始めたというエピソードも残っている。また兄はヴァイオリンを弾いていたというところから、家庭はそれなりに裕福だったのかもしれない。優しい家族に囲まれながら手作りギターで練習していたとしたならば、ほっこりと安心もしてしまう。

 それでも楽器を自由に操るのはとても難しい。さらにはブラックウェルが生まれたのは1903年だ。いくらギターを夢中になって弾き始めたとしても、今のように情報を取り入れる環境ではなかったことを考えると、やはり身近に音楽に詳しい人物が存在したのではないだろうか。晩年のソロアルバムではピアノでの弾き語りもこなしてしまう彼の姿からも、あながち的外れな想像でもないと思う。ま、ピアノに関しては相棒だったピアノマンのリロイ・カーからの影響かもしれないが、それでもカーとの歴史的な出会いを引き寄せるだけの力をブラックウェルは持ち合わせていたのだ。けして悪魔と取引して上手くなった訳ではない。

 と、ここまでならばブルースマンの印象も随分と和らぐところなのだが、やはり伝説のブルースマンには光もあるが影もある。禁酒法(1920~1933)がまだ施行されていた頃、ブラックウェルは密かに醸造したウィスキーを売りさばく事を生業としていた。しかも相当に当てていたらしく、リロイ・カーからレコーディングの仕事を誘われてもかなり渋っていたらしい。趣味として音楽を愛したかったのかもしれないが、禁酒法という制約の裏でぶくぶくと肥えていたのはギャング達だ。ヤバイ仕事で手に入る金の大きさから比べたら、金の匂いがしないミュージシャンに魅力を感じないどころか、食っていけないと本気で思ったはずだ。

 後にジミー・コックスの「Nobody Knows You When You’re Down and Out」を吹き込むブラックウェルだが、金を手にした男が落ちぶれていく姿を歌った歌詞の中には「金を持っていた時には仲間を引き連れ大盤振舞いで」というくだりがあり、その後の「密造酒やシャンパンを飲みまくった」という部分を告白するように歌っている。そうそう余談だが、ここに痺れたのはクラプトンも一緒だと確信している。二人の演奏を聴き比べて欲しい。アンプラグドで歌うクラプトンの発音はブラックウェルにそっくりなのだ。

 絶頂期のブラックウェルはリロイ・カーが亡くなった後で表舞台からは姿を消してしまっている。しかしストーンズやクラプトン、キンクスなどを中心に英国の若者たちが巻き起こしたブルース・ブームが引き金となって55歳でカムバックしている。けれども実際に再び発見された時には、彼は甥の家で極貧の生活を送っており、ギターすら所持していなかったらしい。まさに落ちぶれていたのだ。それでも彼を見かけた人がギターとビールを渡すと、素晴らしい歌声とギターでブルースを聴かせてくれたという逸話も残ってる。

 リアルに落ちぶれた男の歌を歌ったブルースマンは何を思っていたのか。切なくもなるが、それでも希望という想像はいつだって持てる。なぜなら、自分の人生の評価は自分自身で採点したいものだから。世間には落ちぶれたように見えたとしても、本人はブルースに癒されていたと願いたい。それどころか、また一発当ててミリオネア…。いや、ビリオネアまでも狙っていたかもしれない。超富裕層と呼ばれるビリオネアのミッションは「血を絶やさない」こと。つまり、「永続的な存続」ということである。ブルース界にはこのビリオネアたちが実に多い。その証拠にブルースの遺伝子を繋いでいる子供たち、孫、ひ孫たちは、ジャンルを超えて今も活躍中だ。

 1962年の秋、59歳のスクラッパー・ブラックウェルは、2発の銃弾によって命を奪われた。かのボブ・ディランをして「俺たちの音楽を辿った先は皆、スクラッパー・ブラックウェルに通じている」そしてさらに「彼は、遥か多くの評価をうけるべき偉大なるミュージシャンだった」と言わしめた伝説のギタリストだった。

*日本語参考 憂歌団 /ドツボ節