月: 2021年4月

Same Old Blues / フレディ・キング

 日本の歌謡曲や演歌などではタイトルにブルースの名称が付けられた曲がとても多い。しかしほとんどの曲は、音楽形式的に見ればブルースとは無縁の代物でもある。多くの日本人にとってブルースとは「哀愁に包まれている曲」とか「ブルーな気持ちを歌ったもの」といった意味合いであるからだ。そんな中において、フレディ・キングが歌う「Same Old Blues」は、憂いのある歌詞とコード進行が琴線に触れ易く、日本人がイメージするブルースとやらを表現しつつも、ブルース特有のフレーズも繰り出されていたりと、後に海を越えて生まれた邦楽のブルース「横浜ホンキートンク・ブルース」や「胸が痛い」などの母親のような役割も果たしていると思う。

 1934年にテキサス州に生まれたフレディ・キングは、チョクトー系インディアンの流れを持つ家庭に生まれた。彼の祖父はフレディの母親に対し「お前は、多くの人々の心をかき乱し、同世代に大きな影響を与えることになる子供を授かるだろう」との予言もしていたとか。まさに「インディアン、嘘つかない」のである。さて、フレディは6歳の頃になるとカントリー・ブルースに触れ、地元テキサスのライトニン・ホプキンスやルイ・ジョーダンらに夢中になっていった。さらに農園で働くようにもなると、アコースティック・ギターも手に入れ練習に明け暮れていく。そして1949年、先に移住していった母方の兄弟たちを追い、家族と共にシカゴへと移っていく。そして1950年代初頭のシカゴといえば、マディ・ウォーターズやハウリン・ウルフらが躍動し始めた時期でもある。ブルースの聖地へとやってきたフレディは、毎晩クラブに潜り込み、シカゴのオールスターズとでもいうべき面々との出会いを通して腕を磨いていくこととなっていくのだ。

 ところで、当時のシカゴ・ブルースを代表するレーベルと言えばチェス・レコードだ。強い憧れを抱いていたフレディは何度かチェスのオーディションを受けている。しかし、ことごとく落選してしまうのであった。チェス側にしてみれば、B.Bキングの二番煎じのようだからと言ったことらしい。それでもこの挫折がフレディを独自のスタイルへと導いていくこととなる。人生にはいい時も悪い時もあるものだが、後々に思い返してみれば悪い時こそ成功へのチケットが用意されていたりもするものだ。フレディの場合もフェデラル・レーベルとの出会いが運命を大きく変えていくこととなる。このレーベルの看板ミュージシャンだったソニー・トンプソンに気に入られ、彼のバックアップを受けることでフレディの才能が一気に開花していくからだ。大ヒットしたインスト曲「Hide Away」では、B.Bキング的なモダンなサウンドをオリジナルへと昇華させ、「友達の女房に恋をしてしまい、身が引き裂かれる思いだ」と歌った「Have You Ever Loved Woman」では、マディ・ウォーターズらシカゴ・ブルースのエロティシズムさえも解き放っている。

 やがてフレディはレコード会社を何度か移籍していくのだが、レオン・ラッセルのシェルター・レーベルでは、ブルース、ゴスペル、ソウルがミクスチャーされていて、まさに南部の音楽をミックスしたスワンプ・ロックの醍醐味も味わえる。移籍後の1stアルバム「Getting Ready…」などは名盤であり、この時期のステージを観たレッド・ツェッペリンのメンバーは、フレディの演奏に衝撃を受けすぎて、開いた口がふさがらなかったという。確かに第2期ジェフ・ベック・グループが取り上げた「Going Down」のサウンドを聴けば、ツェッペリンへと繋がっていくブルース・ロックそのものと言っても言い過ぎではないだろう。

 さてさて、フレディのセクシャルなギターは、ここでというタイミングでしゃくり上げてくれる。まるでゆっくりなドリブルからギアを上げ、一瞬で相手を抜き去っていくサッカー選手のようなフレーズだ。さらに聴き込めば、他のメンバーの音を良く聴いているのが分かってくる。音のスペースを上手く使い、メンバーたちとの会話を楽しんでいるのだ。こんな男なら会社を立ち上げていたとしても大成功していたと思う。惜しくも精力的に活動していた矢先に、出血性潰瘍と心不全により他界しているが、フレディのフレーズには、独りよがりではない優しさとリーダーシップが満ち溢れている。起業家としての彼の姿も見てみたかったと思うのは、こんな時代だからだろうか。

Rollin’ & Tumblin’ / マディ・ウォーターズ

 弾き語りのブルースマンに夢中になる前は、ボーカリストが弾くリズム・ギターが好きだった。歌とギターが直結したスタイルには強靭な塊があって、ガッカ、ガッカ、ガッカ、ガッカと3連符を刻む音からは悦びも湧き上がってきていた。その中でマディ・ウォーターズのギターは特別だった。リフを刻みながら呼応するスライド・ギターがメロディックでいて、人影のない夏の終わりのような何かを感じさせた。それらは同じ世代に活躍したエルモア・ジェームスやハウリン・ウルフには見つけることのない。とても不思議な感覚でもあった。

 1915年、ミシシッピー州で生まれたマッキンリー・モーガンフィールドは、泥んこになって遊ぶのが大好きだったことから、マディ・ウォーターズ(泥水)とあだ名をつけられた。ギターを弾き始めた頃のアイドルは、チャーリー・パットンやサン・ハウスたち。デルタ・ブルースの中で育った。初レコーディングは1941年。民俗音楽の研究家であるアラン・ロマックスらが、ブルース音楽を記録してほしいという国会図書館からの依頼を受けて、レコード録音機を持ってミシシッピーに来ていた時のことだ。本当はロバート・ジョンソンを探しに来ていた民俗学者たちだったが、すでにジョンソンは殺されていた。それでも彼らはプランテーションで働く農夫たちからマディ・ウォーターズの噂を聞きつけるのだった。もちろんここでの演奏は、フィールド録音と呼ばれる「The Complete Plantation Recordings」で聴くことができる。この中にはマディのインタビューも録音されており、「サン・ハウスが好きで影響を受けた」など、とても貴重な証言も残されている。

 さて、この録音で自分の歌声を初めて聴いたマディ・ウォーターズは、自身の声の良さに驚き勇気づけられ、シカゴに移住する人々の中に加わっていく。しかし当時の都市ではナット・キング・コールのような洗練されたジャジーなものが人気であり、ブルースの分野でもビッグ・ビル・ブルーンジーやタンパ・レッドと言ったシティ・ブルースが活躍していた時代であった。大都市で夢見た音楽活動のスタートは、「お前のような古いブルースは、シカゴでは誰も聴かない」とまで言われてしまうものであったのだ。

 しかし1947年、マディ・ウォーターズはチェス兄弟と出会う。彼らは後のチェス・レコードとなる会社を持っていた人物たちだ。翌年、マディは「何もかも上手くいかないぜ」と「I Can’t Be Satisfied」を吹き込みヒットさせた。マディの歌とスライド・ギターに、叩くようなベースの音だけを加えたもので、都市で流行中のモダンなサウンドではなかったのだが、その素朴さが逆に郷愁を誘い、故郷を捨ててきた黒人たちに受けとめられていったのだ。さらにマディは、酒場の喧騒に対抗するためにギターをアンプに差し込み音量を上げていく。やがてバンドを従えてチェス・レコードで開花していくのであるが、この辺の様子はチェスを題材とした映画「キャデラック・レコード」でも味わうことができるから見てほしい。

 さてさて、マディ・ウォーターズがカントリー・ブルースから決別し、50年代のエレクトリックなシカゴ・ブルースを確立していくのに必要だった曲が「Rollin’ & Tumblin’」だ。もともとマディはこの曲をバンドで演奏したいと思っていた。しかしチェス側はそれまでの成功もあり、少人数での演奏を求めてきた。その不満を持っていたマディに目をつけたのが他のレコード会社で、チェス・レコードとの契約の裏をかき、マディをギターに専念させ、他のバンド・メンバーたちに歌わせたものを発売したのだ。それがこちらのベビーフェイス・ルロイ・トリオの「Rollin’ & Tumblin’」だ。

 古くから伝わるこの曲は、ブルース特有の12小節進行よりもさらにシンプルな構造で、ワンコードを転がしていく感覚で成り立てっている。それゆえにマディのスライド・ギターが欠かせないものとなっていて、繰り返されるリフレインがとてもセクシャルだ。それに絡むブルース・ハープはリトル・ウォルターが負けじと吹きまくっている。残念ながら歌の方は男たちの騒めきが強すぎて傑作とまでは言い難いが、それでもシカゴ・ブルースの始まりは、この熱量から動かされていったのだ。

 マディの引き抜き事件後、チェス・レコードはバンド・メンバーを増やすことを認めた。それ以降の活躍は、「Rollin’ Stone」「Long Distance Call」「I’m Your Hoochie Coochie Man」「I Just Want To Make Love To You」「Mannish Boy」など、他にも多くのヒット曲が続き、物語りを綴ってくれている。しかしながら、エレクトリック・シカゴ・ブルースの扉をこじ開けたのは「Rollin’ & Tumblin’」であり、マディ・ウォーターズのスライド・ギターなのである。