胸が痛い / 憂歌団

 ちょっとした知り合いが新しくオープンする店のシェフを任されたという事で、試食して欲しいからと、食事に添えるパンを持って来てくれた。最近は高級食パンなどと、それだけで美味しい甘いパンが目立っているが、そのパンは一緒に食べると料理を引き立ててくれる、いわゆる「お食事パン」だった。早速いただいてみると、スープやシチューにはもちろん似合いそうだし、ハーブを使った料理や、トマト煮込みやオイル煮込みなど、今までいただいた印象深いレストランでのメニューまでもを思い出させてくれた。そう言えばワインを好きになったのもあの店からだった。最後のデザートまでそれぞれを引き立たせていく味わいは演奏のようでもあり、誰もが大切だという慈愛のようなものが流れていたように思い出す。

 ところで料理に限らず、手作りの作品には作者の思考が現れやすく、そう簡単には嘘をつけないものだと思っている。素朴なアコースティック・ブルースの演奏などもそうである。日本ではそのようなブルース・バンドを多く見かけないが、唯一無二のバンドとして憂歌団はブルースという憂いを我々に届けてくれていた。

 憂歌団の始まりは高校の美術科という教室にまで遡る。そこで出会った木村少年と内田少年は、お互いのレコードの貸し借りをするような仲になっていく。当時(1969年前後)は、ジミ・ヘンドリクス、クリーム、レッド・ツェッペリン、テン・イヤーズ・アフターなどが大挙して押し寄せていた時代。2人も夢中になり、お好みのロック・ギタリストのインタビュー記事から、彼らのルーツであるブルースにまで辿り着くこととなる。その時の印象を内田さんは「何らかの形式の中それをはみ出ようとしているかのようなものが好きだった。どうもそれがブルースであったらしい」と述べている。ロックとは違ったシンプルな演奏を高校生の時に聴いて、その深さに魅了されたというのだから、早熟な感性には驚かされる。とにかく2人は古いブルースを聴き始め、アコースティック・ギターも持ち寄り、授業もそこそこにマディ・ウォーターズやエルモア・ジェイムスらを唄い奏でるようになっていった。こうしてデッサン室から始まった憂歌団は、高校を卒業後もジャズ喫茶などで演奏するようになっていく。そこに同級生だったベースの花岡さんとドラムの島田さんも加わり、20年以上に渡り不動のメンバーで活動していくのである。

 ところで、レコード・デビュー前の憂歌団のレパートリーは全てアメリカのブルース。木村さんの日本人離れした声もあって、海の向こうのサウンドのかっこ良さを出せていたからそのままで良いという感じだったらしい。それでも音楽活動が広がるにつれ、「ブルースを演るなら日本語でやらんといかんのやないか」という意見も聞こえてくるようになってきた。フォークの人気に沸いていた当時の影響もあり、サウンドだけでなく歌詞も揃っての表現を求められてきたのだ。こうして自分達のブルース表現の模索が始まっていくのだが、シリアスになり過ぎないところが憂歌団である。偶然がどんどん重なり、同じように面白い人たちが集まってきた。「嫌になった」「10$の恋」などには沖てる夫さんが歌詞をつけ、「シカゴ・バウンド」「俺の村では俺も人気者」などは、名古屋の尾関ブラザーズという兄弟ユニットの曲である。みんな飲み友達だったらしい。

 デビュー・シングルの「おそうじオバチャン」にしても、4ビートのブルースを遊びで演っていた時に木村さんが笑福亭仁鶴さんのマネをしながら勝手に唄い出したのがきっかけとなる。当時の様子を内田さんはこう語る。『皆んなと演奏できれば嬉しいばかりで、これこれこんな音楽を作ろうというビジョン等無く、合奏していれば何かが生まれるんじゃないかと安易に考えていた。しばらくするとレコーディングの話が舞い込んできた。大した力みも無く録音に向かう。今までやって来た事を出せば良いだけ。それは数年分か19年分からぬが。そうやってできたのが最初のアルバムだ。』なんとなく演っていたら何かが生まれたと言い切ってしまう内田さんがとてもいい感じだった。ロック・バンドのように「甘さ」と「毒」が混じり合った危うさも魅力的だが、憂歌団のように馴染みの居酒屋で出される突き出しのような「安心感」と「期待感」のブルースもまたいいものだ。それはキャリアが深まってきた頃のヒット曲「胸が痛い」にも宿っている。作詞に康珍化、作曲は羽田一郎というビックネームの2人を迎えて作られた楽曲はとても洗練されているが、憂歌団の演奏はとても郷愁を感じるブルースだ。ここでも嘘をつかずに今までやって来たことをさらけ出していたのだろう。根付いてしまった憂鬱までも愛してしまっているかのようだ。