投稿者: SIGEN

「新しい生活様式」が始まり、ローカルバンドマンが選んだスタイルは、戦前ブルースマンと呼ばれる人達の様式美。およそ100年前に確立された音楽は、現在の状況さえも癒してくれるのではと研究中。

Why Don’t You Do Right? / リル・グリーン

「あんたがしっかりしないから、お金がないのよ」「他の男たちのように稼いできてよ」なんて言われてしまったとしたら、男の貴方ならどうするのだろうか。黙って出ていくのだろうか、それともお前のせいだろうと罵り合いに発展させるのだろうか。当然こんな質問は考えたくもないだろうし、恐ろしいことのように思えるかもしれない。それでも自転車操業で乗り切ってきている自営業者となると、「金がない?」「だからどうした?」「フツウだろう」といたって呑気なものである。それゆえに「Why Don’t You Do Right?」のように「あんたは甲斐性なしだ」と歌われても、じつに平気をキメ込めるものなのだ。

Why Don't You Do Right?
作詞・作曲 Joe McCoy

1922年には、あなたはたくさんお金をもっていたわね
今じゃみんなにいいように使われて
どうしてもっとちゃんとしないの?
他の男たちのように
どこかでお金を稼いで私にもちょうだいよ

あなたって坐ってなんやかんやと考えているばかり
お金がなきゃみんなあなたを放り出すわ
どうしてもっとちゃんとしないの?
他の男たちのように
どこかでお金を稼いで私にもちょうだいよ

20年前にちゃんと準備しておけば
今はほっつき歩いたりしなくてすんだでしょうに
どうしてもっとちゃんとしないの?
他の男たちのように
どこかでお金を稼いで私にもちょうだいよ

あなたの嘘を信じたから、あなたを受け入れたの
今じゃあなたがくれるのは一杯のジンだけ
どうしてもっとちゃんとしないの?
他の男たちのように
どこかでお金を稼いで私にもちょうだいよ

もともと「Why Don’t You Do Right? 」は、1936年にブルースマンであるジョウ・マッコイが書いた「Weed Smoker’s Dream」で、歌詞の内容はマリファナを吸って夢を見ている男の歌というものだった。それをマッコイ自身が女性視点から見たダメ男の内容に書き直し、1941年にリル・グリーンが歌い評判となっていった。しかし黒人が最初に歌い、その後で白人が歌って大ヒットするという図式があるように、この歌も翌年にはペギー・リーがベニー・グッドマン楽団で歌い、ヒットチャートを駆け上っていく。逸話だが、ペギーはグリーンの歌を聴いてとても気に入り、この曲をアレンジして自分が歌えるようして欲しいとグッドマンに依頼したらしい。しかしグッドマンは単調すぎるブルースが好きになれずにいて、はじめは渋っていたとさえ言われている。確かにグットマンのアレンジはブルースからジャジーにスイングさせていて都会的だ。それでもペギーの歌声の方は、発音も抑揚の付け方もグリーンの歌声に習っている。ビックバンドのスイングの上で白人の女の娘がブルースを歌った。しかもちょっとだけナマイキに。ここが化学反応を起こさせた要因なのかもしれない。

 さて、オリジナルを歌ったリル・グリーン(1919-1954)は、両親を早くに亡くしたために、10代からウエイトレス兼歌手として働きはじめている。ファンにとっては有名な話だが、幸運にもビッグ・ビル・ブルーンジーと組んで活動していた時期が5年間もある。彼女の代表曲である「Romance in the Dark」でも当たり前のように彼がギターを弾いていて、グリーンのチャーミングでブルージーな歌声をサポートしている。この頃の彼女の音源は、戦前ブルースやジャズが好きな方ならハマりにハマるはず。余談だが、憂歌団もライブ盤「“生聞”59分!!」の中で、彼女の「If I Didn’t Love You」をカバーしている。木村さんがMCで「次はリル・グリーンの歌で」と紹介するところもたまらない。ところで写真で見る彼女は大らかな感じだが、間のとり方やビブラートの掛け方は小粋なタッチだ。もしかしたらとても繊細だったのかもしれない。そういう面が原因だったのかは分からないが、とても若くして亡くなっている。34歳だった。亡くなる前にはアトランティック・レコードと契約を交わし、白人マーケットへの進出というステップを掴みかけていただけに、もう少しだけでも長く活動できていたらと悔やまれる。

 ところで、この頃のアメリカは狂乱の20年代と呼ばれた繁栄から、ウォール街の悪夢と呼ばれた大恐慌までをも経験し、第二次世界大戦に突入にしていった時期でもある。激しい時代の波に翻弄されてしまった男たちはたくさんいただろうし、「金持ちだと思っていたのにダメ男だったわ」と、そんな男に捕まってしまった女たちも溢れていたはずだ。それゆえに、ときおり愚痴るように歌う女性歌手に共感した女たちも多かったのだろう。さらには実生活でもそれに習っていた可能性もあるのだから恐ろしい。それにしてもだ、肝心の男たちはケツを叩かれ、罵られ、奮起できていたのだろうか。 今さらながら、タフで優しい男たちがいてくれたことを願うばかりだ。

Please Don’t Talk About Me / レオン・レッドボーン

 自分が選ば無かった道を「あっちを選んでいたら…どうだっただろう」と後で悔やんでも詮ないことだ。それでもほとんどの人が思い返すものではないかとも思う。幸せな人生だったなと、努力してしきた時間を振り返ってみることができる人だったとしても、見えぬ先の行方を悩んだ時のことを思い出し、その時の自分に耽る時がやってくるような気がしている。そうでなければたくさんの別れの歌が存在している理由も無くなってくる。男と女の別れも、壊れた友情も、なにかを諦めてしまった寂しさゆえに歌が生まれ、歌い継がれてきた。そしてそれらには哀しい旋律がよく似合う。

 ところが世の中には「Please Don’t Talk About Me」のように「もう私のことは話さないで」と、綺麗さっぱりとしたラブソングもあるから面白い。この歌ができたのは1930年だが、それより前の1910年代から20年代は、チャーリー・チャップリンやバスター・キートンといった、サイレント・コメディアンたちが映画界に進出していくようになってきた時代。そして彼らのキャリアはヴォードヴィルといったミュージック・ホールの舞台からスタートしている。後に足並みを合わせるように映画音楽を担当していくことになる作詞家や作曲家たちも、その舞台で腕を磨いた人たちが多い。「Please Don’t Talk About Me」も、ヴォードヴィルのコメディアンだったスィドニー・クレアと、ピアノ伴奏をしていたサム・H・ステプトが書き上げたものだった。

Please Don’t Talk About Me
作詞 Sidney Clare 作曲 Sam H. Stept

どうか私がいってしまったあと、私のことは話さないで
もうこれから私たちの友情が終わってしまうとしても
それから聞いて、私について何か良いことを言うのでなかったら
私の忠告だけど、何も言わない方がいいと思うの

私たちは別れ、あなたはあなたの道をいき
私は私の道を行く これがベストなことね
このささやかなキスが、あなたに幸運をもたらすといいわね
私がまたバカなことをしていてもどうってことないのよ
覚えておいて、私が去ったあとも私のことは話さないでいて

 日本人がイメージする別れの曲には似つかわしくない軽快な曲と歌詞だが、ビリー・ホリデイをはじめ、多くのアーティストに歌い継がれてきた。こういったメジャーキーでのテンポ良い曲はアドリブを回すと楽しくなるものだから、ジャズのスタンダードになっていく要因も含まれていたということなのだろう。そして女性だけでなく、男性ボーカリストが取り上げていることも多い。どうやら「私の事は忘れて」と強がる女が歌うよりも「俺の悪口は言うなよ」といった身勝手な男の方が、このノリには相応しいのかもしれない。レオン・レッドボーンはいつもの鼻歌まじりでボソボソとお別れを、ウィリー・ネルソンは陽気なカントリーでさよならを歌った。極め付けはジェリー・リー・ルイスのロックンロール。ここまでくると呆れられる可能性は120%だが、彼を恨んでもしょうがないと諦めてはくれるだろう。

 さて、彼らの演奏を見てくれたあなたが女性ならば、王子様はいないどころか、自分を護ってくれるナイトも期待してはいけないと思ったかもしれない。それとも男はいつまでも子どもねと、笑って許してくれたのだろうか。そういえば祖母がまだ元気だった頃、「女を味方にしないで成功した男はいないから優しくしなさい」と言ってたことを思い出した。やっぱり「俺の悪口は言うなよ」と甘えてイキがるよりも、悪口を言われないように気をつけていくのが賢明だということなのでしょうか。

Minnie the Moocher / キャブ・キャロウェイ

 1920年から1933年まで、アメリカでは禁酒法が施行され、酒の製造、販売、輸送が禁じられた。とはいえ、その間も町から酔っ払いが消えることは無かった。スピークイージーと呼ばれたもぐり酒場から会員制の秘密クラブまでもが大流行したからだ。その酒場を仕切り、裏で糸を引いていたのはギャングたちと賄賂にまみれた政治家たちだった。つまりその頃の夜の社交場はとんでもない無法地帯でもあったのだ。シカゴではギャングスターのアル・カポネ。カンザスシティでは市議会議員でもあるトム・ペンダーガストなど、ギャングも政治家も入り乱れての宴が各地で繰り広げられていた。密造酒、売春、麻薬と、ろくでもないことで得た金が飛び交っていたのである。さらにその傾向は大都市になる程に大きくなり、ニューヨークでは禁酒法が施行される前の段階で1万5000軒ほどだった酒場が激増し、もぐり酒場が10万軒にもなったともみられている。

 さて、1920年代からジャズ文化の中心地に躍り出たのはニューヨークだ。歌や踊りのバックに流れる音楽として、秘密の高級クラブなどで高い人気を誇ることになる。ルイ・アームストロングがニューヨークに移り住み、フレッチャー・ヘンダーソンが彼を自分のバンドに引き抜いた。デューク・エリントンもシーンに登場し、彼らの率いるオーケストラはハーレムの有名なナイトスポット、コットン・クラブのお抱えバンドになったのを契機に一気に広まっていく。そしてこのクラブのオーナーはもちろんギャングスター。血みどろの抗争をしたカポネも、ギャングと繋がり私腹を肥やしたペンダーガストも、熱心なジャズ愛好家であったが、コットン・クラブのオーナーであるオウニー・マドゥンもそのひとりであり、多くのジャズメンを引き抜き、客にヤミの酒とそれに伴うサービスを提供しては繁盛していくのであった。

 高級サロンだったコットン・クラブは露出度の高い衣装で出演するコーラス・ガールにそれを支えるジャズのビックバンドが売りだった。毎晩のように着飾ったセレブリティたちが集い、最高峰のエンターテインメントを楽しんでいた。あのチャップリンまでもが通い詰めていたというから素晴らしいショーの数々だったのだろう。その様子は1984年にリチャード・ギアが主演した映画「コットン・クラブ」でもうかがうことができる。しかしながら、実際のコットン・クラブは、スタッフと演奏者は全て黒人であり、顧客の白人を盛り上げるためのナイトクラブであった。リチャード・ギアのような白人の演奏家が交わることは無かったのだ。それにしても禁酒法によりギャングが莫大な利益を上げるようになるとは誰もが予想しなかったことだろう。禁酒法案を推進した人々は、これでアルコールの乱用による争いごとが減ると信じきっていたはずだ。しかし皮肉なことに、もぐり酒場は増え続け巨大な犯罪組織が町を覆っていくのであった。

 いっぽうで、ジャズはこの時代に大きく開花していく。ギャングが得たヤバイ金がチップとなってジャズメンの懐を膨らませてくれたからだ。デューク・エリントンの後にコットン・クラブのお抱えバンドリーダーになったのはキャブ・キャロウェイ。彼のようなエンターテイナーなら、ワンステージでどれだけ稼ぎまくったのだろうか。ついつい膨らんだポケットを想像してみたくなる。ちなみに、映画「コットン・クラブ」にはキャブのそっくりさんが出演していて当時の熱狂ぶりを再現している。

 そしてホンモノが出演した映画と言えば、1980年にジョン・ランディスが監督した映画「ブルース・ブラザーズ」だろう。孤児だったジェイクとエルウッド達の面倒をみてくれたカーティス役で登場し、彼らがライブコンサートに到着するまでの時間稼ぎとして「Minnie the Moocher」を歌っている。この映画で初めてキャブの存在を知ったのだが、動くスキャット唱法を初めて見た時には驚きと楽しさがいっぺんにやってきたものだ。聴衆の尊敬を集めていることは会場の反応から伝わってきていたし、今になって見返して見ると、ギターのスティーヴ・クロッパーも、ベースのドナルド・ダック・ダンも、とにかくバンドのメンバー全員が笑顔だ。きっと撮影も関係なしにキャブとの演奏を楽しんでいたのだろう。

 さて、キャブの代表曲である「Minnie the Moocher」は、コットン・クラブで初めて歌われ大ヒットになっていく。最初の晩に演奏された時、クラブの客は6回ものアンコールを要求したとか、スキャットの部分は歌詞を忘れてしまったので仕方なく「ハイデホー」とやってしまったら、バンドがそのフレーズを追いかけてきて、次に客が真似をして出来上がった。なんて逸話も残されている。このコール&レスポンスはブルースにも見られる形式だが、キャブの場合も毎回アドリブのため違っているから面白く、多分コットン・クラブは毎晩お祭り騒ぎだったはずだ。そして気になってくるのは歌詞の方だが、レコーディングされたこの歌は途中までしか歌われていない。じつは当時のSP盤には録音時間の制約があったために最後の7番までは歌えなかったのだ。

 1番から4番までの歌詞の内容は、ミニーという踊り子がスモーキーという名のジャンキーに恋をしてしまうところから始まる。彼女はドラッグのヤリ方までも仕込まれてしまうのだが、気持ちよくトリップして金持ちになった夢を見ているところで終わっている。レコーディングされているのはここまでだ。しかし続きを調べてみると、ドラッグでぶっ飛んでいたミニーとスモーキーは警察の護送車にぶち込まれてしまうのだった。ミニーは保釈してくれるようにと金をスモーキーに渡したのだが、彼はミニーをほっぽり出し、自分だけとんずらしてしまった。哀れなミニーは説教をしにきた助祭に身体をくねらせ助けを求めたが、ついには草葉の陰に横たわってしまった。ミニーはいい娘だったが、みんなが酷い目にあわしたんだ。かわいそうなミニー。というオチになっている。

 この歌は最後まで歌われることで物語が成立するものだったと思うし、コットン・クラブで最後まで聴いていた人にはレコードでは物足りなかっただろう。アドリブの多いキャブのような人の場合は、その日の客の様子でも歌詞を変えていくだろうから、SP盤から今のDL状況に変わろうが、ライブを体験しなくちゃ語れない部分も多いのだと思う。禁酒法時代に生まれたかったとまでは言わないが、彼の泥臭いまでの熱と洗練されたステージは見てみたかった。いっしょに「ハイデホー」とやれたら、しばらくは笑いが止まらないほどに愉快だったであろう。当時から100年近くも経っているが、今こそ同じ場所で笑いあえることが必要な時代なだけに、彼のようなエンターテインメントがこれからも続くことを願っている。