Shake Your Money Maker / エルモア・ジェームス

 1961年の夏、エルモア・ジェームスは「Shake Your Moneymaker」を吹き込んだ。しばらくして当時のダンス曲として人気となり、ジューク・ジョイントと呼ばれた安酒場などで演奏される度に「もっとやってくれ」と、熱狂した客の声に包まれたという。歌詞の方は皮肉なのか、ジョークなのか、本気なのか、まったく分からないが、”腰や尻”を振ってお金を儲けている女のことを歌っている。主人公の男はその女に惚れていたのだろうか。投げやりで皮肉たっぷりにも取れる歌詞だが、その男の悲しみもまた伝わってくる。それはまるで「朝日楼」などに描かれた女に恋をしてしまった男の”矛盾のブルース”とも呼べそうだ。

Shake Your Moneymaker
Elmore James

Shake your moneymaker Shake your moneymaker
Shake your moneymaker Shake your moneymaker
I got a girl lives up on the hill 
I got a girl lives up on the hill
Says she gonna love me but I dont believe she will 
Shake your moneymaker Shake your moneymaker
Shake your moneymaker Shake your moneymaker

さあ、お前の腰を振ってくれよ
その大事な金の成る腰を
俺には、丘の上に住む女がいる
あの丘に住む女を手に入れたんだ
あの娘は、俺を好きだって言ってる
でもそうは思えない
それでも、お前の腰を振ってくれよ
その大事な金の成る腰を

 それにしてもこの歌詞を聴きながら踊りまくったというのだから、当時のジューク・ジョイントにはどんな人種が集まっていたのだろう。もともと”ジューク”には”騒々しい”と言う意味もあるが、”娼家”のことも指している。それゆえにトラブルを抱えた男の数も多かったはずだ。酒、ギャンブル、女。それらの全てが交差する安酒場では天国気分を味わえることだろうが、その取り扱いを間違えてしまえば地獄行きの片道切符しか掴めない。厄介ごとの火種は魅力的だが、手を出すには相当の覚悟と盲目になることも必要になってくる。さらにはその快楽も長くは続かないのがいつものオチだ。それでも人は何かを求めてしまうという厄介な生き物でもある。輪廻転生が本当なのかは知らないが、もしもそうだとしたなら、いったいどれほど生まれ変われば”まとも”になれるのだろう。

 さて、エルモア・ジェームスは1918年にミシシッピ州に生まれた。10代の頃から週末はジューク・ジョイントで歌い稼ぐようになっていたというが、そこでロバート・ジョンソンに手ほどきを受けたという逸話が残っている。ミシシッピーの田舎の安酒場で出会った師匠が、酒と女とカードが大好きだったとするならば、エルモアが教えてもらったことは直伝の「Dust My Broom」だけではなかったはずだ。目の前で床を踏み鳴らし歌うロバート・ジョンソンの手から渡されたブルースには、”生々しさ”の全てが詰まっていたことだろう。もともと心臓が悪くて気の弱いエルモアが、かん高い声で火を噴くようなスライド・ギターを弾きまくるようになったのも、手渡されたブルースから逃げ出したいという叫び声だったのかもしれない。

 ところで、エルモアの代名詞とも呼ばれる、オープンD系チューニングで豪快にかき鳴らす3連符だが、ロバート・ジョンソンのスタイルから離れ、オリジナリティを確立していけた要素のひとつに、アコースティック・ギターにピックアップを取り付け、その音をアンプで増幅させたことも見逃せない。ここでひとまず2人の「Dust My Broom」を聴いてほしい。

まずはロバート・ジョンソン

そしてエルモア・ジェームス

 ロバート・ジョンソンの弾き語りスタイルと、バンドでの演奏を比較するのには無理もあるのだが、それでも完全に生まれ変わっている。ラジオの修理工だったエルモアは自分のアンプを改造し、独特のディストーション・サウンドを生み出した。当時としては豪快な歪みにぶっ飛ばされたリスナーが多く、1951年に初録音されたこの曲は大ヒットとなり、以降、このスタイルがトレードマークとなっていく。さらに、音の選び方もオープンチューニングを施しスライド・バーを使うことで、ロバート・ジョンソンとは違ってきている。エルモアの方は、”♭7″の音を使っていない3音だけで構成されたコードで弾きまくっているから、ロバート・ジョンソンの悪魔的なブルースに比べると、単純に明るい。ただそれでいて、艶かしく動いている響きも宿っている。それが逆にもがいているようで、哀れな男の歌にも聴こえてくるのだ。

 さてさて、「俺の人生は長くない」と予言するように歌っていたエルモア・ジェームスは1963年に心臓麻痺で亡くなった。45歳だった。幸せだったかどうかを人生の長さだけでは計れないが、歴史に残るミュージシャンであったことは確かなことだ。後続のブルースマンに多大な影響を与えたゴット・ファーザーのひとりとして今もフォロワーを生み出している。自分にとって大切なものは何なのか。晩年のエルモアは「The Sky Is Crying」や、ジミヘンもカバーした「My Bleeding Heart」のようなスロー・ブルースを多く演奏している。どちらも失恋の歌で恨み節にも聴こえるが、その女を愛していたことも良くわかる。またもや”矛盾のブルース”だ。抱え込んでしまったものを手放すには歌うしかなかったのだろうか。それにしてもだ、その”矛盾”を打ち破るブルースはどうしたら手に入れられるのだろう。どうやらエルモア・ジェームスのブルースは、哲学的だというか、本質ってやつを探したくなるものらしい。

Down In The Bottom / ハウリン ・ウルフ

 心理学用語に「ファイト・オア・フライト」というものがあって、動物はストレスや苦悩に直面すると、その問題に”挑戦”するか、”逃げる”という行動をとると言われている。さらに最近ではその前後に“凍結“と“放棄“も加えられて説明されている。想定などしていない状況では、”凍結(フリーズ)”してしまうし、戦うことも逃げることもできなければ、”放棄(フォーフィット)”してしまうのだということだった。

 なるほど上手く説明するものだと理解もしたが、どうしても気になってくるのは今回のコロナ感染のようなケースだ。経験した人は殆どいない状況で、どうやって幸福感を得ていけば良いものなのかと悩みもする。まして今の自分を俯瞰してみれば、”凍結”し閉じ込められている状況で、ただ春が来ないかと願っているだけのようだ。なんだか落ち込みそうにもなってもくるが、それでも昔のブルースマンたちもそうだったに違いないと慰めておきたい。逃げ足の早い奴らが多かったというイメージが浮かぶものの、「どうにもならん」と”放棄”し、酒を呑んでいた輩もたくさんいたはずなのだ。しかもそれでいて、けっこうな幸せも感じ取れていたようにも思えてくる。ロッキン・チェアに居座ってブルースを歌い、酒を浴びることも、時には必要になってくるものなのだ。

 さて、今回のブルースマンはハウリン・ウルフ。歴代の中でもイチバン強そうなルックスと名前を持っている。なにせ「吠えるオオカミ」だ。弱いはずがない。声もダミ声で、弱音を吐いたとしても相手にはケンカ腰に届いていたことだろう。ただそんな彼だが、1962年の2ndアルバム「ハウリン・ウルフ」に収録された「Down In The Bottom」では、命からがら”逃走”する歌を歌っている。「ふもとで会おうぜ、俺の靴を持って来てくれ」と始まり「彼女のひどい親に殺されるには若すぎるんだ」と叫んでいるのだ。

 1910年にミシシッピ州で生まれたウルフは、チャーリー・パットンにギターの手ほどきを受け、サニー・ボーイ・ウィリアムソンからハーモニカを学んだというから、音楽を学ぶには恵まれていた環境のようだ。それでも抑圧された南部での生活では不平等に扱われたという憤りを抱えていた農夫のひとりであり、40歳でミュージシャンになるまでの楽しみは、仲間内で分かり合える音楽だけのようだった。ブルースが生まれた理由をここで深読みするならば「Down In The Bottom」は、駆け落ちするような悲恋の歌ではなくて、ひどい状況からの脱出の思いが込められていたとも言える。さらに1951年のデビュー・シングル「HOW MANY MORE YEARS」と「真夜中のモーニン」のカップリングでは「どれだけオマエにつきまとわれてきただろう」そして「誰かがドアをノックしている」と歌っている。女とのトラブルを嘆いているようでもあるが、何かに怯えているようでもあり、深い闇に付き纏われているようでもある。

 後にシカゴ・ブルースの重要人物となっていくウルフだが、同じく重鎮であるマディ・ウォーターズに比べると、白人の前にはなかなか姿を現すことがなかったようだ。彼にとってのブルースとは、仲間内だけこそが理解してくれるものであり、ゲットー・バーと呼ばれる貧困層に属するアフリカ系アメリカ人が集う場所で歌うものだったらしい。薄汚れたバーで、酒と煙草が染み付いたブルースを歌い続けようとしたハウリン・ウルフは、心臓発作を起こしても医師の指示に逆らい、死の直前まで歌い続けたという。いったい最後はどんな闇に向かって吠えたのだろう。

 ところで、オオカミの遠吠えには3つの理由があるらしい。1つめは他の個体に自分の縄張りを知らせ、近づかないようにさせるため。2つめは群れからはぐれた時に仲間を見つけるため。3つめは、仲間との絆を維持するという目的だ。これを知った時、オオカミに備わっている優しさに気がつき驚いた。そして偶然だとしても、ハウリン・ウルフの咆哮のブルースにも、同じ役割が含まれていたように思えてきてならないでいるのだ。

Death Don’t Have No Mercy / レヴ・ゲイリー・デイヴィス

 地方の小さな町に店を開いて20数年が経つが、同じ商店街の方々が続けてお亡くなりになる経験をしたのは初めてのことだった。ずいぶんと寂しくなってきた商店街だが、これでまた店舗の数が減ってしまうことになる。駅前に百貨店があって賑わっていた頃が懐かしい。お亡くなりになられた方々は、昭和の時代から店を切り盛りされていた店主の方々が多く、皆さん最後まで店に立たれていた。それぞれの持病に悩まされていたらしいのだが、そんな素振りも見せてはいなかった。「あそこの店に行くのが楽しみだった」そんな言葉もたくさん届いているし、自分もそのひとりだった。こんなことになるのならば、もっとありがとうを伝えておけばよかった。こういう時はいつも心に残ってしまうが、自分にできることは多くはない。どうぞ安らかにと祈らせて頂くことぐらいだ。

 さて、あたりまえと後悔はいつも背中合わせなものだが、ゲイリー・デイヴィスは「Death Don’t Have No Mercy」でそれを見事に表現している。牧師でもあった彼だけに、「死は誰にもやってくるものだから、後悔のないように生きなさい」と説法をしているのだ。さらに残されていた映像を見てみると、誰かが亡くなったことを悲しく思っている気持ちも表していたことに気がついた。きっと色々な解釈があっていいのだろう。ブルースの正解もひとつじゃないのだ。矛盾さえも赦してくれている存在、現象を超えて在るもの。ゲイリー・ディビスの声にはそんな”何か”が含まれていると思う。

Death Don't Have No Mercy
Rev.Gary Davis

死神はこの世で情け容赦などしない
死神はこの世で情け容赦などしない
奴はあんたの家にも訪れ、そしてさっさといなくなる
ベッドに目を向ければ、きっと誰かがいなくなっている筈さ
死神はこの世で情け容赦などしない

そうさ、死神はこの世の全ての家族のもとに行く
そうさ、死神はこの世の全ての家族のもとに行く
そうさ、奴はあんたの家にも訪れ、そしてさっさといなくなる
そうさ、ベッドに目を向ければ、あんたの家族の一人がいなくなっているだろう
死神はこの世の全ての家族のもとに行く

そうさ、死神はこの世では休暇はとらないからな
そうさ、死神はこの世では休暇はとらないからな
そうさ、奴はあんたの家にも訪れ、そしてさっさといなくなる
そうさ、ベッドに目を向ければ、最愛の母親がいなくなっているだろう
死神はこの世では休暇はとらないからな

 5歳の頃からハーモニカを吹きはじめ、続いてバンジョーとギターを手にしたゲイリー・デイヴィスは、7歳の時にはもうギターを弾く仕事につき、14歳の時にはストリング・バンドを結成して各地を演奏してまわっていた。まさに天才肌だったとしか言いようがない。ところがその時期に彼は失明をし、その事件をきっかけに信仰に傾いていくこととなる。1933年にノースカロライナ州のワシントンで牧師に任命された彼は、1935年にブラインド・ボーイ・フラーと最初の吹き込みもしているが、ブルースの曲は少なく、もっぱら宗教的なものだったらしい。その後は「聖なるブルース」とも呼ばれていくのだが、内容的には純然たるゴスペル・ソングだけを歌いとおした人生のようだ。

 失明という事件は、昨日までの”ふつう”が、今日になって”特別”なものだったと知るには十分すぎるものだったことだろう。学校や仕事、人間関係、病気と、誰の人生にも四苦八苦はつきまとうが、それらには押し潰れそうな痛みを取り払うチャンスは残っている。光を見ることができなくなったゲイリー・デイヴィスは、いったい何を見ようとしたのだろう。そして何を伝えようとしたのだろう。想像を張り巡らしてはみているが、けっきょく答えなどは出やしない。

 ただ最後にエピソードをひとつ紹介したいと思う。自分の店では幅広い年代のお客さまがいらっしゃるので、BGMは聴きやすいボサノバやポップスなどを選んで流している。ただし数曲だけはブルースを仕込んでいて、それが流れた出した時には、こっそりとほくそ笑んでいたりもするのだ。今日はショートカットの女性を接客中に、偶然にも「Death Don’t Have No Mercy」流れ出した。するとその女性は「この曲カッコイイね、ブルースっていうの?」「うねり?みたいなのが素敵ね」と言ってくれた。盲目のシンガーで牧師さんなんだよと伝えた後で、死神の歌だってことは黙っておいた。歌詞も大事だろうが、静かに流れてきた音だけで癒されてくれたのだ。なんだか「それでいい」と、ゲイリー・デイヴィスも言ってくれたような気がした。今度また彼女が来た時には、別の曲も聴かせてみたいと企んでいる。