It Hurts Me Too / タンパ・レッド

 ブルースには様々な演奏スタイルがあるが、ギターに関してもチューニングを変えてみたり、酒の瓶やナイフで弦をスライドさせてみたりと、斬新なテクニックや奏法も生まれてきた。近年においてもそれらを受け継いでいるアーティストは多く、ブルースだけでなくコンテンポラリーな音楽でも耳にすることができる。1900年代初頭まで、アメリカ南部の黒人たちの憩いの場はジューク・ジョイントと呼ばれる酒場だった。農園などで働く彼らの楽しみといえば、そこに集まりミュージシャンの演奏に合わせてダンスすること。そして既にこの頃からギタリストたちは酒場にあった身近な道具を巧みに使い、スライド奏法を披露し客を盛り上げていたという。最初にスライド・ギターが録音されたブルース・レコードは1923年のシルベスター・ウィーバーの「Guitar Blues」で、当時の情景が浮かび上がるインストルメンタルの曲だ。さらに1940年代後半に進むと、低所得者だった黒人層をターゲットとしたブルースのレコードも数多く発売されるようになり、スライド・ギターの名手と呼ばれる男たちも次々と登場してくるのである。エレクトリックによるスライドでシカゴを震わせたマディ・ウォーターズ。チェス・レコーズにマディと同じく在籍したロバート・ナイトホーク。そしてキング・オブ・スライド・ギターといえばエルモア・ジェームスだ。真っ先に浮かぶ「Dust My Broom」に代表されるように、あのエルモア節はスライド・ギターの枠を超えてブルースのスタンダードとなっていく。

 さて、その王様であるエルモアが憧れていた男がタンパ・レッドだ。1928年「It’s Tight Like That」で「あの娘はキツイ」とふざけた歌を歌い、それが当たったことでシカゴに住みつき、アル・カポネにも贔屓にされながら1950年代まで大量のレコーディングを続けていく。見事なスライド・ギターの腕前から「ギターの魔術師」とまで呼ばれ、陽気なラグタイムやホウカム・ソング、沈着なスロー・ブルースまでそのレパートリーは広かった。

 生涯で300曲以上の録音をこなした彼だが、歌詞を見ても優れたものが多く「Kingfish Blues」では自分を魚の王様に、女たちを小魚に例えて「タンパ・レッドはどんな小魚を選んだら良いか知っているぜ」とも歌い上げている。ギャングスターにも贔屓にされていたくらいなのだから、なかなかの気骨も持ち合わせていたのかもしれない。けれども、「お前が愛してる男はお前を傷つける」「お前が不幸になることに俺は心を痛めてる」と歌う彼の代表曲「It Hurts Me Too」を聴くと、実際のところはこのブルースマンにしても、見栄を張り続けた大ボラ吹きだったのかもしれないとも思えてくる。

 ところで肝心のスライド奏法だが、タンパ・レッドは単弦でのスライド奏法を確立した最初の人物である。そしてその奏法は戦後のロック・ギターにおけるチョーキングなど、スクイーズ・スタイルにまで影響を及ぼしている。ここはものすごく重要だ。彼のスライドは、フレーズの最後を細かく揺らしてビブラートをかけていることが多い。それに憧れたB.Bキングやバディ・ガイは、自身もスライドを試してみるのだが上手くいかず、その代わりにチョーキングで表現することに決めたという。そしてそれがブルーノートと呼ばれるジャズやブルースで使われる音を表現するのにピタリとハマっていくのだった。繊細な音使いのタンパ・レッドがいたからこそ、次の世代がまたイキイキと表現できたのだ。

 さてさて、「It Hurts Me Too」をカバーしてもっとも有名にさせたのは、エルモア・ジェームスだ。リズムをスローにして、出だしからエルモア節で泣いている。同じようなブルースを体験し、タンパ・レッドを聴いて泣いていたのだろうか。オリジナルよりもブルースにどっぷり浸っている。寂しさを振り払うように練習していたのかもしれない。ギターを弾いていた部屋には、酒の空いたボトルがそこら中に転がっていそうだ。だからなのだろうか、スライド・ギターは咽び泣いている男の声にも聞こえてくるのだ。

Somebody Loves Me / ビッグ・ビル・ブルーンジー

 まだ若い頃に「ロックを演るならブルースを聴きなさい」という洗礼を受けた。当たり前だがカッコイイという音にも出会うこともできた。でもブルースがどれだけ素晴らしい音楽かということを知ったのは、もっと歳をとってからだった。とすれば、歳を重ねていくことにだって、思いがけないプレゼントが届くようなこともあるわけだ。

 昔はブルースと言えばマディ・ウォーターズやハウリン・ウルフ。もちろんストーンズの影響だ。そして多くのロックファンが遡ったようにロバート・ジョンソンを追いかけて挫折した。「俺はロバジョンを聴いてるぜ」と武装はできたものの、オリジナルを理解するのは簡単ではなかったのだ。それでもカントリー・ブルースと呼ばれる中にも、肌なじみの良い音を見つけることができた。そしてそれらのほとんどが、ウキウキするリズムを包括していた。ラグタイムってやつだった。

 1898年ミッシッピーに生まれたビッグ・ビル・ブルーンジーは、ラグタイム・ギターの達人のひとりだ。強力なベースラインとメロディックなリードラインを恋人たちのように結びつけ、生涯で500曲以上は録音したと言われている。コトの始まりは10歳の頃にタバコの箱でフィドルを作り、同じように空箱でギターを作った友人と、白人達のピクニックについていって演奏したこと。そこでの演奏を気に入ってくれた白人から新品の楽器を買ってもらい、練習に明け暮れた彼らは地元で人気者になっていくのだった。

 ところで、このフィドルという楽器は見た目はバイオリンだが、アイリッシュ音楽やブルーグラスのような民族音楽に使われるものである。「バイオリンは歌うけど、フィドルは踊る」と言う謳い文句があるように、クラッシックのようにかしこまった感じではなく、ワイワイと楽しむもののようだ。彼の自伝「ビック・ビル・ブルース」では自分自身のことを「陽気な酒飲みで、いつも女と遊んでいた」などとも書いている。大ぼらを吹いてる面も否めないが、陽気な性格はこの頃からのようで、後にシカゴに出て活躍し始めると、後輩ミュージシャン達の面倒も良くみている。貧しい生活の幼少期のようだったが、故郷の南部の大地から学んでいたことは、奪い合うのではなく分け与えることの大切さであったのであろう。とかくミュージシャンは独りよがりになりがちなものだが、ビルは故郷である南部のブルースと、生活を共にする仲間たちを生涯愛し続けたのだ。

 それにしても、ブルースマンとして長く愛された彼の人生を辿っていくのはワクワクするけれど大変だ。それでも追いかけずにはいられないのだから諦めよう。思い返せばエリック・クラプトンがカバーして有名になった「Hey,Hey」を聴き、親指でE弦を弾くのを真似したくてコピーしたのが始まりだった。さらに、若い頃の曲を集めて編集したアルバム「The Young Big Bill Broonzy 1928-1935」の12曲目「Good Liquor Gonna Carry Me Down」と、13曲目の「Skoodle Do Do」の連続パンチにヤラレ、深みにハマってしまうのだ。今だってこの記事を書きながら他のアルバムを聴きまくっている。やはり今夜も寝る時間が無くなってきてしまった。だからそれらはまたいつか紹介したい。ビック・ビル・ブルーンジーを今回だけでまとめ上げることなど不可能だと悟ったからである。1927年の初録音から始まり、マディ・ウォーターズらエレクトリックな世代に影響を与えたこと。他のシンガーやミュージシャンのサポートをしていたこと。盟友であるウォッシュボード・サム、サニー・ボーイ・ウィリアムスンらとも一緒に活動していたことなど、偉大なブルースマンの名演はあまりにも多すぎる。

 さて、好きな曲が多過ぎてどの曲を選ぶのかはお手上げ状態ではあるが、それでも何かをカバーしてみたくて、あえて晩年の作品から「Somebody Loves Me 」取り上げてみた。ビルは1950年代に入ると、フォーク・ブームの煽りを受け、その歌い手として世界中で公演を行っている。特にヨーロッパ・ツアーにおいては多くのロック・ギタリスト達に影響を与えている。「Recorded In Club Montmartre Copenhagen 1956, Vol. 1 (Live)」は彼が亡くなる2年前、1956年に吹き込んだ音源集。フォーク・リバイバル期のブルース需要を伝える貴重な作品でもある。若い頃に吹き込まれた演奏に比べ、白人のフォーク・ブルース・ブームに合わせた軽めの演奏を批判する人もいるが、この頃の彼のライブは録音技術の向上も相まって、まるでその場にいて聴いているかのようだ。もちろんビルの演奏を見たヨーロッパの聴衆は、彼の演奏技術に驚嘆の声をあげたと伝えられている。

 昔から伝わる南部のブルースも、洗練されたシティ・ブルースも、貧しい者の心情を歌うフォーク・ソングも歌うことができたビルは、都会に出ることで売れたが、自分達の演り方に誇りを持ってブルースを愛し、田舎での生活も続けていた。他のブルースマンと同じように破天荒な出来事もあったようだが、とても幸せな人生だったと思える。1958年8月、彼の葬儀はシカゴのメトロポリタン葬儀場の大きなチャペルで行われた。ビルの古くからの友人らが集まり、ギタリストもピアニストも、彼に思い出を持つものは皆、シャベルを持って棺に土をかけたという。ずっと今までブルースは哀しみから逃れるために歌うものだとばかり思っていたが、どうやら幸せになるために歌う歌こそ、本物のブルースなのではと思えてきている。

Why Don’t You Do Right? / リル・グリーン

「あんたがしっかりしないから、お金がないのよ」「他の男たちのように稼いできてよ」なんて言われてしまったとしたら、男の貴方ならどうするのだろうか。黙って出ていくのだろうか、それともお前のせいだろうと罵り合いに発展させるのだろうか。当然こんな質問は考えたくもないだろうし、恐ろしいことのように思えるかもしれない。それでも自転車操業で乗り切ってきている自営業者となると、「金がない?」「だからどうした?」「フツウだろう」といたって呑気なものである。それゆえに「Why Don’t You Do Right?」のように「あんたは甲斐性なしだ」と歌われても、じつに平気をキメ込めるものなのだ。

Why Don't You Do Right?
作詞・作曲 Joe McCoy

1922年には、あなたはたくさんお金をもっていたわね
今じゃみんなにいいように使われて
どうしてもっとちゃんとしないの?
他の男たちのように
どこかでお金を稼いで私にもちょうだいよ

あなたって坐ってなんやかんやと考えているばかり
お金がなきゃみんなあなたを放り出すわ
どうしてもっとちゃんとしないの?
他の男たちのように
どこかでお金を稼いで私にもちょうだいよ

20年前にちゃんと準備しておけば
今はほっつき歩いたりしなくてすんだでしょうに
どうしてもっとちゃんとしないの?
他の男たちのように
どこかでお金を稼いで私にもちょうだいよ

あなたの嘘を信じたから、あなたを受け入れたの
今じゃあなたがくれるのは一杯のジンだけ
どうしてもっとちゃんとしないの?
他の男たちのように
どこかでお金を稼いで私にもちょうだいよ

もともと「Why Don’t You Do Right? 」は、1936年にブルースマンであるジョウ・マッコイが書いた「Weed Smoker’s Dream」で、歌詞の内容はマリファナを吸って夢を見ている男の歌というものだった。それをマッコイ自身が女性視点から見たダメ男の内容に書き直し、1941年にリル・グリーンが歌い評判となっていった。しかし黒人が最初に歌い、その後で白人が歌って大ヒットするという図式があるように、この歌も翌年にはペギー・リーがベニー・グッドマン楽団で歌い、ヒットチャートを駆け上っていく。逸話だが、ペギーはグリーンの歌を聴いてとても気に入り、この曲をアレンジして自分が歌えるようして欲しいとグッドマンに依頼したらしい。しかしグッドマンは単調すぎるブルースが好きになれずにいて、はじめは渋っていたとさえ言われている。確かにグットマンのアレンジはブルースからジャジーにスイングさせていて都会的だ。それでもペギーの歌声の方は、発音も抑揚の付け方もグリーンの歌声に習っている。ビックバンドのスイングの上で白人の女の娘がブルースを歌った。しかもちょっとだけナマイキに。ここが化学反応を起こさせた要因なのかもしれない。

 さて、オリジナルを歌ったリル・グリーン(1919-1954)は、両親を早くに亡くしたために、10代からウエイトレス兼歌手として働きはじめている。ファンにとっては有名な話だが、幸運にもビッグ・ビル・ブルーンジーと組んで活動していた時期が5年間もある。彼女の代表曲である「Romance in the Dark」でも当たり前のように彼がギターを弾いていて、グリーンのチャーミングでブルージーな歌声をサポートしている。この頃の彼女の音源は、戦前ブルースやジャズが好きな方ならハマりにハマるはず。余談だが、憂歌団もライブ盤「“生聞”59分!!」の中で、彼女の「If I Didn’t Love You」をカバーしている。木村さんがMCで「次はリル・グリーンの歌で」と紹介するところもたまらない。ところで写真で見る彼女は大らかな感じだが、間のとり方やビブラートの掛け方は小粋なタッチだ。もしかしたらとても繊細だったのかもしれない。そういう面が原因だったのかは分からないが、とても若くして亡くなっている。34歳だった。亡くなる前にはアトランティック・レコードと契約を交わし、白人マーケットへの進出というステップを掴みかけていただけに、もう少しだけでも長く活動できていたらと悔やまれる。

 ところで、この頃のアメリカは狂乱の20年代と呼ばれた繁栄から、ウォール街の悪夢と呼ばれた大恐慌までをも経験し、第二次世界大戦に突入にしていった時期でもある。激しい時代の波に翻弄されてしまった男たちはたくさんいただろうし、「金持ちだと思っていたのにダメ男だったわ」と、そんな男に捕まってしまった女たちも溢れていたはずだ。それゆえに、ときおり愚痴るように歌う女性歌手に共感した女たちも多かったのだろう。さらには実生活でもそれに習っていた可能性もあるのだから恐ろしい。それにしてもだ、肝心の男たちはケツを叩かれ、罵られ、奮起できていたのだろうか。 今さらながら、タフで優しい男たちがいてくれたことを願うばかりだ。