Back Door Santa / クラレンス・カーター

 B.BキングのようなブルースマンからJETのようなロックバンドまでがカバーしているクリスマス・ソングがある。1968年に発表されたコンピレーション・アルバム「Soul Christmas」に収録された「Back Door Santa」だ。歌っているのは盲目のR&Bシンガーのクラレンス・カーター。ソウルやゴスペル、ブルースやカントリーを混ぜ込んだサウンドで、ソウル界の至宝とまで呼ばれている人物である。そんな偉大なクラレンスだが、このクリスマス・ソングだけはとにかくヤバイ。なにせ『裏口からこっそり家に入っては男の子を追い払い、女の子たちを幸せにしてあげる』という悪いサンタの歌だからである。なにかと炎上しやすい今の時代なら、『間男サンタ』の歌なんて、とてもジョークだとは目をつぶってもらえなかったかもしれない。

 ところで、このクリスマス・アルバム「Soul Christmas」は、スタックス・レーベルの所属アーチストを中心にコンピレーションされたアルバムだ。R&B系クリスマス・アルバムの最高峰とまで呼ばれ、ソウル・ファンならば、オーティス・レディングやカーラ・トーマス、ウィリアム・ベルらの名前に歓喜してしまうってヤツだ。当時のオリジナル・アルバムには、今ではもの凄い高値が付いていて、とにかく手にするのも大変なのだが、iTunesでも聴くことができるからご安心を。個人的にはキング・カーティスのサックスを何度もリピートしてしまう。「The Christmas Song」と「What Are You Doing New Year’s Eve?」の2曲が収録されていて、どちらも素晴らしいフレーズを聴かせてくれているからだ。他にもブッカー・T&MG’sのスティーブ・クロッパーのギターフレーズや、ソロモン・バークの歌声など、あの当時のリズムとサウンドに触れると、なんとも言えない夢見心地なってしまっている。

 さて、そんなアルバムの1曲目を飾ったクラレンス・カーターは、1936年アラバマ州で生まれた。幼い頃に視力を失いながらも、ジョン・リー・フッカーやライニトニン・ホプキンス、ジミー・リードを聴き、盲学校に通い音楽を専攻していく。1966年にはフェイム・レコードからソロデビューし、翌年にはエタ・ジェームスに提供した「Tell Mama」がビルボードR&Bチャートで10位を記録する。クラレンス自身も「Tell Daddy」として発表し、こちらも35位を記録した。その後もヒットを飛ばし、トップ・ソウル・シンガーの仲間入りを果たすこととなっていくのだった。

 そしてフェイム・レコードと言えば、アレサ・フランクリン、ウィルソン・ピケットなどのソウルの名作を生み出した伝説のスタジオ、「フェイム・スタジオ」を拠点にしていた。若き日のクラレンスもこの場所で多くのことを学んだという。彼の生まれた場所がアラバマで、フェイムもアラバマを拠点としていたということは運命的な出会いだったのだろう。2014年の音楽ドキュメンタリー映画「黄金のメロディ〜マッスル・ショールズ」にもクラレンスは出演していて、「アラバマではまだ人種差別が公然とされていた時代だったが、スタジオの中では肌の色なんて気にせずに音楽のことだけを考え、純粋に協力し合っていた」と話してくれている。

 1967年の終わりからアトランティック・レコードに移籍した クラレンスだが、作品の録音は1973年までフェイム・スタジオで行われた。彼の最大のヒット曲である「Patches」も、今回取り上げた「Back Door Santa」も、気のおけない仲間と作れたからこそ特別なグルーヴが生まれたのだろう。映画の中ではスタジオ・ミュージシャンだったスワンパーズのメンバーが「自分たちは、ひとりひとりだと決して凄腕ではなかったが、一緒に演奏すると特別なマジックが生まれてきた」と真剣な眼差しで思い出を語っていた。さらに、スタジオの生みの親であるリック・ホールは「人間らしい不完全さが音楽には必要で、それが名曲を作る魔法なのだ。アーメン!」と説法を語ってくれた。今年は世界中のどこでも、不完全なクリスマスを迎える人たちが多いことだろう。でもそれならば、人々を励ます名曲たちは世界中から鳴り始まるはずなのだ。今はそいつを信じたい。それではみなさん、メリークリスマス!そして良いお年を!

It Hurts Me Too / タンパ・レッド

 ブルースには様々な演奏スタイルがあるが、ギターに関してもチューニングを変えてみたり、酒の瓶やナイフで弦をスライドさせてみたりと、斬新なテクニックや奏法も生まれてきた。近年においてもそれらを受け継いでいるアーティストは多く、ブルースだけでなくコンテンポラリーな音楽でも耳にすることができる。1900年代初頭まで、アメリカ南部の黒人たちの憩いの場はジューク・ジョイントと呼ばれる酒場だった。農園などで働く彼らの楽しみといえば、そこに集まりミュージシャンの演奏に合わせてダンスすること。そして既にこの頃からギタリストたちは酒場にあった身近な道具を巧みに使い、スライド奏法を披露し客を盛り上げていたという。最初にスライド・ギターが録音されたブルース・レコードは1923年のシルベスター・ウィーバーの「Guitar Blues」で、当時の情景が浮かび上がるインストルメンタルの曲だ。さらに1940年代後半に進むと、低所得者だった黒人層をターゲットとしたブルースのレコードも数多く発売されるようになり、スライド・ギターの名手と呼ばれる男たちも次々と登場してくるのである。エレクトリックによるスライドでシカゴを震わせたマディ・ウォーターズ。チェス・レコーズにマディと同じく在籍したロバート・ナイトホーク。そしてキング・オブ・スライド・ギターといえばエルモア・ジェームスだ。真っ先に浮かぶ「Dust My Broom」に代表されるように、あのエルモア節はスライド・ギターの枠を超えてブルースのスタンダードとなっていく。

 さて、その王様であるエルモアが憧れていた男がタンパ・レッドだ。1928年「It’s Tight Like That」で「あの娘はキツイ」とふざけた歌を歌い、それが当たったことでシカゴに住みつき、アル・カポネにも贔屓にされながら1950年代まで大量のレコーディングを続けていく。見事なスライド・ギターの腕前から「ギターの魔術師」とまで呼ばれ、陽気なラグタイムやホウカム・ソング、沈着なスロー・ブルースまでそのレパートリーは広かった。

 生涯で300曲以上の録音をこなした彼だが、歌詞を見ても優れたものが多く「Kingfish Blues」では自分を魚の王様に、女たちを小魚に例えて「タンパ・レッドはどんな小魚を選んだら良いか知っているぜ」とも歌い上げている。ギャングスターにも贔屓にされていたくらいなのだから、なかなかの気骨も持ち合わせていたのかもしれない。けれども、「お前が愛してる男はお前を傷つける」「お前が不幸になることに俺は心を痛めてる」と歌う彼の代表曲「It Hurts Me Too」を聴くと、実際のところはこのブルースマンにしても、見栄を張り続けた大ボラ吹きだったのかもしれないとも思えてくる。

 ところで肝心のスライド奏法だが、タンパ・レッドは単弦でのスライド奏法を確立した最初の人物である。そしてその奏法は戦後のロック・ギターにおけるチョーキングなど、スクイーズ・スタイルにまで影響を及ぼしている。ここはものすごく重要だ。彼のスライドは、フレーズの最後を細かく揺らしてビブラートをかけていることが多い。それに憧れたB.Bキングやバディ・ガイは、自身もスライドを試してみるのだが上手くいかず、その代わりにチョーキングで表現することに決めたという。そしてそれがブルーノートと呼ばれるジャズやブルースで使われる音を表現するのにピタリとハマっていくのだった。繊細な音使いのタンパ・レッドがいたからこそ、次の世代がまたイキイキと表現できたのだ。

 さてさて、「It Hurts Me Too」をカバーしてもっとも有名にさせたのは、エルモア・ジェームスだ。リズムをスローにして、出だしからエルモア節で泣いている。同じようなブルースを体験し、タンパ・レッドを聴いて泣いていたのだろうか。オリジナルよりもブルースにどっぷり浸っている。寂しさを振り払うように練習していたのかもしれない。ギターを弾いていた部屋には、酒の空いたボトルがそこら中に転がっていそうだ。だからなのだろうか、スライド・ギターは咽び泣いている男の声にも聞こえてくるのだ。

Somebody Loves Me / ビッグ・ビル・ブルーンジー

 まだ若い頃に「ロックを演るならブルースを聴きなさい」という洗礼を受けた。当たり前だがカッコイイという音にも出会うこともできた。でもブルースがどれだけ素晴らしい音楽かということを知ったのは、もっと歳をとってからだった。とすれば、歳を重ねていくことにだって、思いがけないプレゼントが届くようなこともあるわけだ。

 昔はブルースと言えばマディ・ウォーターズやハウリン・ウルフ。もちろんストーンズの影響だ。そして多くのロックファンが遡ったようにロバート・ジョンソンを追いかけて挫折した。「俺はロバジョンを聴いてるぜ」と武装はできたものの、オリジナルを理解するのは簡単ではなかったのだ。それでもカントリー・ブルースと呼ばれる中にも、肌なじみの良い音を見つけることができた。そしてそれらのほとんどが、ウキウキするリズムを包括していた。ラグタイムってやつだった。

 1898年ミッシッピーに生まれたビッグ・ビル・ブルーンジーは、ラグタイム・ギターの達人のひとりだ。強力なベースラインとメロディックなリードラインを恋人たちのように結びつけ、生涯で500曲以上は録音したと言われている。コトの始まりは10歳の頃にタバコの箱でフィドルを作り、同じように空箱でギターを作った友人と、白人達のピクニックについていって演奏したこと。そこでの演奏を気に入ってくれた白人から新品の楽器を買ってもらい、練習に明け暮れた彼らは地元で人気者になっていくのだった。

 ところで、このフィドルという楽器は見た目はバイオリンだが、アイリッシュ音楽やブルーグラスのような民族音楽に使われるものである。「バイオリンは歌うけど、フィドルは踊る」と言う謳い文句があるように、クラッシックのようにかしこまった感じではなく、ワイワイと楽しむもののようだ。彼の自伝「ビック・ビル・ブルース」では自分自身のことを「陽気な酒飲みで、いつも女と遊んでいた」などとも書いている。大ぼらを吹いてる面も否めないが、陽気な性格はこの頃からのようで、後にシカゴに出て活躍し始めると、後輩ミュージシャン達の面倒も良くみている。貧しい生活の幼少期のようだったが、故郷の南部の大地から学んでいたことは、奪い合うのではなく分け与えることの大切さであったのであろう。とかくミュージシャンは独りよがりになりがちなものだが、ビルは故郷である南部のブルースと、生活を共にする仲間たちを生涯愛し続けたのだ。

 それにしても、ブルースマンとして長く愛された彼の人生を辿っていくのはワクワクするけれど大変だ。それでも追いかけずにはいられないのだから諦めよう。思い返せばエリック・クラプトンがカバーして有名になった「Hey,Hey」を聴き、親指でE弦を弾くのを真似したくてコピーしたのが始まりだった。さらに、若い頃の曲を集めて編集したアルバム「The Young Big Bill Broonzy 1928-1935」の12曲目「Good Liquor Gonna Carry Me Down」と、13曲目の「Skoodle Do Do」の連続パンチにヤラレ、深みにハマってしまうのだ。今だってこの記事を書きながら他のアルバムを聴きまくっている。やはり今夜も寝る時間が無くなってきてしまった。だからそれらはまたいつか紹介したい。ビック・ビル・ブルーンジーを今回だけでまとめ上げることなど不可能だと悟ったからである。1927年の初録音から始まり、マディ・ウォーターズらエレクトリックな世代に影響を与えたこと。他のシンガーやミュージシャンのサポートをしていたこと。盟友であるウォッシュボード・サム、サニー・ボーイ・ウィリアムスンらとも一緒に活動していたことなど、偉大なブルースマンの名演はあまりにも多すぎる。

 さて、好きな曲が多過ぎてどの曲を選ぶのかはお手上げ状態ではあるが、それでも何かをカバーしてみたくて、あえて晩年の作品から「Somebody Loves Me 」取り上げてみた。ビルは1950年代に入ると、フォーク・ブームの煽りを受け、その歌い手として世界中で公演を行っている。特にヨーロッパ・ツアーにおいては多くのロック・ギタリスト達に影響を与えている。「Recorded In Club Montmartre Copenhagen 1956, Vol. 1 (Live)」は彼が亡くなる2年前、1956年に吹き込んだ音源集。フォーク・リバイバル期のブルース需要を伝える貴重な作品でもある。若い頃に吹き込まれた演奏に比べ、白人のフォーク・ブルース・ブームに合わせた軽めの演奏を批判する人もいるが、この頃の彼のライブは録音技術の向上も相まって、まるでその場にいて聴いているかのようだ。もちろんビルの演奏を見たヨーロッパの聴衆は、彼の演奏技術に驚嘆の声をあげたと伝えられている。

 昔から伝わる南部のブルースも、洗練されたシティ・ブルースも、貧しい者の心情を歌うフォーク・ソングも歌うことができたビルは、都会に出ることで売れたが、自分達の演り方に誇りを持ってブルースを愛し、田舎での生活も続けていた。他のブルースマンと同じように破天荒な出来事もあったようだが、とても幸せな人生だったと思える。1958年8月、彼の葬儀はシカゴのメトロポリタン葬儀場の大きなチャペルで行われた。ビルの古くからの友人らが集まり、ギタリストもピアニストも、彼に思い出を持つものは皆、シャベルを持って棺に土をかけたという。ずっと今までブルースは哀しみから逃れるために歌うものだとばかり思っていたが、どうやら幸せになるために歌う歌こそ、本物のブルースなのではと思えてきている。