Please Don’t Talk About Me / レオン・レッドボーン

 自分が選ば無かった道を「あっちを選んでいたら…どうだっただろう」と後で悔やんでも詮ないことだ。それでもほとんどの人が思い返すものではないかとも思う。幸せな人生だったなと、努力してしきた時間を振り返ってみることができる人だったとしても、見えぬ先の行方を悩んだ時のことを思い出し、その時の自分に耽る時がやってくるような気がしている。そうでなければたくさんの別れの歌が存在している理由も無くなってくる。男と女の別れも、壊れた友情も、なにかを諦めてしまった寂しさゆえに歌が生まれ、歌い継がれてきた。そしてそれらには哀しい旋律がよく似合う。

 ところが世の中には「Please Don’t Talk About Me」のように「もう私のことは話さないで」と、綺麗さっぱりとしたラブソングもあるから面白い。この歌ができたのは1930年だが、それより前の1910年代から20年代は、チャーリー・チャップリンやバスター・キートンといった、サイレント・コメディアンたちが映画界に進出していくようになってきた時代。そして彼らのキャリアはヴォードヴィルといったミュージック・ホールの舞台からスタートしている。後に足並みを合わせるように映画音楽を担当していくことになる作詞家や作曲家たちも、その舞台で腕を磨いた人たちが多い。「Please Don’t Talk About Me」も、ヴォードヴィルのコメディアンだったスィドニー・クレアと、ピアノ伴奏をしていたサム・H・ステプトが書き上げたものだった。

Please Don’t Talk About Me
作詞 Sidney Clare 作曲 Sam H. Stept

どうか私がいってしまったあと、私のことは話さないで
もうこれから私たちの友情が終わってしまうとしても
それから聞いて、私について何か良いことを言うのでなかったら
私の忠告だけど、何も言わない方がいいと思うの

私たちは別れ、あなたはあなたの道をいき
私は私の道を行く これがベストなことね
このささやかなキスが、あなたに幸運をもたらすといいわね
私がまたバカなことをしていてもどうってことないのよ
覚えておいて、私が去ったあとも私のことは話さないでいて

 日本人がイメージする別れの曲には似つかわしくない軽快な曲と歌詞だが、ビリー・ホリデイをはじめ、多くのアーティストに歌い継がれてきた。こういったメジャーキーでのテンポ良い曲はアドリブを回すと楽しくなるものだから、ジャズのスタンダードになっていく要因も含まれていたということなのだろう。そして女性だけでなく、男性ボーカリストが取り上げていることも多い。どうやら「私の事は忘れて」と強がる女が歌うよりも「俺の悪口は言うなよ」といった身勝手な男の方が、このノリには相応しいのかもしれない。レオン・レッドボーンはいつもの鼻歌まじりでボソボソとお別れを、ウィリー・ネルソンは陽気なカントリーでさよならを歌った。極め付けはジェリー・リー・ルイスのロックンロール。ここまでくると呆れられる可能性は120%だが、彼を恨んでもしょうがないと諦めてはくれるだろう。

 さて、彼らの演奏を見てくれたあなたが女性ならば、王子様はいないどころか、自分を護ってくれるナイトも期待してはいけないと思ったかもしれない。それとも男はいつまでも子どもねと、笑って許してくれたのだろうか。そういえば祖母がまだ元気だった頃、「女を味方にしないで成功した男はいないから優しくしなさい」と言ってたことを思い出した。やっぱり「俺の悪口は言うなよ」と甘えてイキがるよりも、悪口を言われないように気をつけていくのが賢明だということなのでしょうか。

Minnie the Moocher / キャブ・キャロウェイ

 1920年から1933年まで、アメリカでは禁酒法が施行され、酒の製造、販売、輸送が禁じられた。とはいえ、その間も町から酔っ払いが消えることは無かった。スピークイージーと呼ばれたもぐり酒場から会員制の秘密クラブまでもが大流行したからだ。その酒場を仕切り、裏で糸を引いていたのはギャングたちと賄賂にまみれた政治家たちだった。つまりその頃の夜の社交場はとんでもない無法地帯でもあったのだ。シカゴではギャングスターのアル・カポネ。カンザスシティでは市議会議員でもあるトム・ペンダーガストなど、ギャングも政治家も入り乱れての宴が各地で繰り広げられていた。密造酒、売春、麻薬と、ろくでもないことで得た金が飛び交っていたのである。さらにその傾向は大都市になる程に大きくなり、ニューヨークでは禁酒法が施行される前の段階で1万5000軒ほどだった酒場が激増し、もぐり酒場が10万軒にもなったともみられている。

 さて、1920年代からジャズ文化の中心地に躍り出たのはニューヨークだ。歌や踊りのバックに流れる音楽として、秘密の高級クラブなどで高い人気を誇ることになる。ルイ・アームストロングがニューヨークに移り住み、フレッチャー・ヘンダーソンが彼を自分のバンドに引き抜いた。デューク・エリントンもシーンに登場し、彼らの率いるオーケストラはハーレムの有名なナイトスポット、コットン・クラブのお抱えバンドになったのを契機に一気に広まっていく。そしてこのクラブのオーナーはもちろんギャングスター。血みどろの抗争をしたカポネも、ギャングと繋がり私腹を肥やしたペンダーガストも、熱心なジャズ愛好家であったが、コットン・クラブのオーナーであるオウニー・マドゥンもそのひとりであり、多くのジャズメンを引き抜き、客にヤミの酒とそれに伴うサービスを提供しては繁盛していくのであった。

 高級サロンだったコットン・クラブは露出度の高い衣装で出演するコーラス・ガールにそれを支えるジャズのビックバンドが売りだった。毎晩のように着飾ったセレブリティたちが集い、最高峰のエンターテインメントを楽しんでいた。あのチャップリンまでもが通い詰めていたというから素晴らしいショーの数々だったのだろう。その様子は1984年にリチャード・ギアが主演した映画「コットン・クラブ」でもうかがうことができる。しかしながら、実際のコットン・クラブは、スタッフと演奏者は全て黒人であり、顧客の白人を盛り上げるためのナイトクラブであった。リチャード・ギアのような白人の演奏家が交わることは無かったのだ。それにしても禁酒法によりギャングが莫大な利益を上げるようになるとは誰もが予想しなかったことだろう。禁酒法案を推進した人々は、これでアルコールの乱用による争いごとが減ると信じきっていたはずだ。しかし皮肉なことに、もぐり酒場は増え続け巨大な犯罪組織が町を覆っていくのであった。

 いっぽうで、ジャズはこの時代に大きく開花していく。ギャングが得たヤバイ金がチップとなってジャズメンの懐を膨らませてくれたからだ。デューク・エリントンの後にコットン・クラブのお抱えバンドリーダーになったのはキャブ・キャロウェイ。彼のようなエンターテイナーなら、ワンステージでどれだけ稼ぎまくったのだろうか。ついつい膨らんだポケットを想像してみたくなる。ちなみに、映画「コットン・クラブ」にはキャブのそっくりさんが出演していて当時の熱狂ぶりを再現している。

 そしてホンモノが出演した映画と言えば、1980年にジョン・ランディスが監督した映画「ブルース・ブラザーズ」だろう。孤児だったジェイクとエルウッド達の面倒をみてくれたカーティス役で登場し、彼らがライブコンサートに到着するまでの時間稼ぎとして「Minnie the Moocher」を歌っている。この映画で初めてキャブの存在を知ったのだが、動くスキャット唱法を初めて見た時には驚きと楽しさがいっぺんにやってきたものだ。聴衆の尊敬を集めていることは会場の反応から伝わってきていたし、今になって見返して見ると、ギターのスティーヴ・クロッパーも、ベースのドナルド・ダック・ダンも、とにかくバンドのメンバー全員が笑顔だ。きっと撮影も関係なしにキャブとの演奏を楽しんでいたのだろう。

 さて、キャブの代表曲である「Minnie the Moocher」は、コットン・クラブで初めて歌われ大ヒットになっていく。最初の晩に演奏された時、クラブの客は6回ものアンコールを要求したとか、スキャットの部分は歌詞を忘れてしまったので仕方なく「ハイデホー」とやってしまったら、バンドがそのフレーズを追いかけてきて、次に客が真似をして出来上がった。なんて逸話も残されている。このコール&レスポンスはブルースにも見られる形式だが、キャブの場合も毎回アドリブのため違っているから面白く、多分コットン・クラブは毎晩お祭り騒ぎだったはずだ。そして気になってくるのは歌詞の方だが、レコーディングされたこの歌は途中までしか歌われていない。じつは当時のSP盤には録音時間の制約があったために最後の7番までは歌えなかったのだ。

 1番から4番までの歌詞の内容は、ミニーという踊り子がスモーキーという名のジャンキーに恋をしてしまうところから始まる。彼女はドラッグのヤリ方までも仕込まれてしまうのだが、気持ちよくトリップして金持ちになった夢を見ているところで終わっている。レコーディングされているのはここまでだ。しかし続きを調べてみると、ドラッグでぶっ飛んでいたミニーとスモーキーは警察の護送車にぶち込まれてしまうのだった。ミニーは保釈してくれるようにと金をスモーキーに渡したのだが、彼はミニーをほっぽり出し、自分だけとんずらしてしまった。哀れなミニーは説教をしにきた助祭に身体をくねらせ助けを求めたが、ついには草葉の陰に横たわってしまった。ミニーはいい娘だったが、みんなが酷い目にあわしたんだ。かわいそうなミニー。というオチになっている。

 この歌は最後まで歌われることで物語が成立するものだったと思うし、コットン・クラブで最後まで聴いていた人にはレコードでは物足りなかっただろう。アドリブの多いキャブのような人の場合は、その日の客の様子でも歌詞を変えていくだろうから、SP盤から今のDL状況に変わろうが、ライブを体験しなくちゃ語れない部分も多いのだと思う。禁酒法時代に生まれたかったとまでは言わないが、彼の泥臭いまでの熱と洗練されたステージは見てみたかった。いっしょに「ハイデホー」とやれたら、しばらくは笑いが止まらないほどに愉快だったであろう。当時から100年近くも経っているが、今こそ同じ場所で笑いあえることが必要な時代なだけに、彼のようなエンターテインメントがこれからも続くことを願っている。

God Bless The Child / ビリー・ホリデイ

 ビリー・ホリデイはジャズ歌手として成功し始めた頃、母親のために小さなスナックのような店を開いてあげた。料理上手な母親の作るフライドチキンなどが評判で、店は大いに賑わった。しかし客の大半は金がないビリーの友達ミュージシャン。ほとんどがツケだった。それでも母親は大盤振る舞いの毎日。そんなある日、今度は金に困ったビリーの方が母親に借金を申し込みに行く。しかし母親には「God bless the child that’s got his own!」「神さまは自分で稼いでくる子どもを祝福なされる」と、すげなく断られてしまった。店を持たせるのに出資していたビリーは怒りが治まらずに家を飛び出してしまうのだが、しばらくした後で、この出来事を昇華させて曲を書き始め、作曲家のアーサー・ハーツォグ・ジュニアにも手伝ってもらい「God Bless The Child」を書き上げた。


God bless the child / Billie Holiday & Arthur Herzog, Jr.

Them that’s got shall get
持つ者にはさらに多くが与えられ、
Them that’s not shall lose
持たざる者からはさらに多くが失われる
So the Bible said and it still is news
聖書にはそう書いてあるが今だにその通りだ
Mama may have, Papa may have
But God bless the child that’s got his own
That’s got his own
お母さんとお父さんが持っていても神様は自分で稼いで持ってる子に祝福を与える


 じつは「God Bless The Child」が生まれた背景に関しての諸説は他にもあるのだが、冒頭に話してみたのが最も多く語られているようだ。ところで、ビリーの公式スタジオ録音曲は、別テイクや没テイク除けば323曲とされているが、そのうち自作オリジナル曲は10数曲で、彼女のために書き下ろされた曲を合わせてもそれほど多くはない。そして「God Bless The Child」は、彼女の他の代表曲である「Don’t Explain」や「Strange Fruit」に比べてみると、面白おかしく作られている。皮肉というスパイスも含まれているのかもしれないが、「男にすがる女」や「人種差別」の苦悩から比べたら笑い飛ばせるものだ。女性ジャズシンガーにとって定番曲になったのは当然のことなのだろう。

 そしてジャズ系以外では、1972年に公開された映画「ビリー・ホリデイ物語/奇妙な果実」に主演したダイアナ・ロスも歌っている。公開当時はソウル系の彼女が抜擢されていることに批判もあったようだが、歌も演技も素晴らしく、容姿は似ていないのにもかかわらず、ホンモノのビリーに見えてくる。そしてさらに他のジャンルの人たちにも取り上げられていて、グリニッジ・ヴィレッジのフォークシーンで中核的存在だったデイヴ・ヴァン・ロンクのバージョンにはアメリカの計り知れない懐を提示されたようで感心させられてしまう。自分にはビリー・ホリデイの曲なんかとても歌えないと思っていたものだが、彼のアレンジは誰もが歌って楽しんでいいのさと背中を押してくれるものだ。

 さて、今では肌の色もジャンルも国境も越えて、そのままを愛されているビリー・ホリデイ。しかしながら彼女の歌は始めから苦しい生活と引っついていた。彼女の人生が語られる時にはいつも「貧困」「人種差別」「強姦」「娼婦」「酒とドラッグ」「最悪なヒモ男」などと、あらゆる辛酸をなめた話しが持ちあがる。そして晩年が近づくにつれ、彼女はその引っついてしまったものたちに寄生され崩されていった。

 酒やドラッグによって彼女の声が壊され出なくなってくると、今度は歌唱法がどうだとか、もともと発声法も教育されたものでないと批判する人たちも増えてきた。しかしそれらはビリー・ホリデイの表現に対しては似合わないジャッジのあり方だった。彼女が歌ってきたのは彼女の暮らしであって、単なるフレーズではなかった。降りかかる憂鬱を言葉で繋ぎ合せ、時には祈り、ジャズという音楽でスウィングさせてきたものだ。そんなに熱心なジャズファンでなくても、ビリー・ホリデイを数曲聴いてみれば、遠く離れた東洋の歌姫たちも真似していたことに気がつくだろう。その歌声は世界中のミュージシャンに大きな影響を与え続けてきた。それにしてもビリー・ホリデイの特別感はどこからくるのだろう。彼女よりも声量を持ち、綺麗に、じょうずに歌う歌手も多くいるというのにだ。彼女が歌うと裏側に引っついたものまでを感じ取ってしまうからなのだろうか。でもそれこそが「あなた自身を歌いなさい」という彼女からのメッセージなのかもしれない。