God Bless The Child / ビリー・ホリデイ

 ビリー・ホリデイはジャズ歌手として成功し始めた頃、母親のために小さなスナックのような店を開いてあげた。料理上手な母親の作るフライドチキンなどが評判で、店は大いに賑わった。しかし客の大半は金がないビリーの友達ミュージシャン。ほとんどがツケだった。それでも母親は大盤振る舞いの毎日。そんなある日、今度は金に困ったビリーの方が母親に借金を申し込みに行く。しかし母親には「God bless the child that’s got his own!」「神さまは自分で稼いでくる子どもを祝福なされる」と、すげなく断られてしまった。店を持たせるのに出資していたビリーは怒りが治まらずに家を飛び出してしまうのだが、しばらくした後で、この出来事を昇華させて曲を書き始め、作曲家のアーサー・ハーツォグ・ジュニアにも手伝ってもらい「God Bless The Child」を書き上げた。


God bless the child / Billie Holiday & Arthur Herzog, Jr.

Them that’s got shall get
持つ者にはさらに多くが与えられ、
Them that’s not shall lose
持たざる者からはさらに多くが失われる
So the Bible said and it still is news
聖書にはそう書いてあるが今だにその通りだ
Mama may have, Papa may have
But God bless the child that’s got his own
That’s got his own
お母さんとお父さんが持っていても神様は自分で稼いで持ってる子に祝福を与える


 じつは「God Bless The Child」が生まれた背景に関しての諸説は他にもあるのだが、冒頭に話してみたのが最も多く語られているようだ。ところで、ビリーの公式スタジオ録音曲は、別テイクや没テイク除けば323曲とされているが、そのうち自作オリジナル曲は10数曲で、彼女のために書き下ろされた曲を合わせてもそれほど多くはない。そして「God Bless The Child」は、彼女の他の代表曲である「Don’t Explain」や「Strange Fruit」に比べてみると、面白おかしく作られている。皮肉というスパイスも含まれているのかもしれないが、「男にすがる女」や「人種差別」の苦悩から比べたら笑い飛ばせるものだ。女性ジャズシンガーにとって定番曲になったのは当然のことなのだろう。

 そしてジャズ系以外では、1972年に公開された映画「ビリー・ホリデイ物語/奇妙な果実」に主演したダイアナ・ロスも歌っている。公開当時はソウル系の彼女が抜擢されていることに批判もあったようだが、歌も演技も素晴らしく、容姿は似ていないのにもかかわらず、ホンモノのビリーに見えてくる。そしてさらに他のジャンルの人たちにも取り上げられていて、グリニッジ・ヴィレッジのフォークシーンで中核的存在だったデイヴ・ヴァン・ロンクのバージョンにはアメリカの計り知れない懐を提示されたようで感心させられてしまう。自分にはビリー・ホリデイの曲なんかとても歌えないと思っていたものだが、彼のアレンジは誰もが歌って楽しんでいいのさと背中を押してくれるものだ。

 さて、今では肌の色もジャンルも国境も越えて、そのままを愛されているビリー・ホリデイ。しかしながら彼女の歌は始めから苦しい生活と引っついていた。彼女の人生が語られる時にはいつも「貧困」「人種差別」「強姦」「娼婦」「酒とドラッグ」「最悪なヒモ男」などと、あらゆる辛酸をなめた話しが持ちあがる。そして晩年が近づくにつれ、彼女はその引っついてしまったものたちに寄生され崩されていった。

 酒やドラッグによって彼女の声が壊され出なくなってくると、今度は歌唱法がどうだとか、もともと発声法も教育されたものでないと批判する人たちも増えてきた。しかしそれらはビリー・ホリデイの表現に対しては似合わないジャッジのあり方だった。彼女が歌ってきたのは彼女の暮らしであって、単なるフレーズではなかった。降りかかる憂鬱を言葉で繋ぎ合せ、時には祈り、ジャズという音楽でスウィングさせてきたものだ。そんなに熱心なジャズファンでなくても、ビリー・ホリデイを数曲聴いてみれば、遠く離れた東洋の歌姫たちも真似していたことに気がつくだろう。その歌声は世界中のミュージシャンに大きな影響を与え続けてきた。それにしてもビリー・ホリデイの特別感はどこからくるのだろう。彼女よりも声量を持ち、綺麗に、じょうずに歌う歌手も多くいるというのにだ。彼女が歌うと裏側に引っついたものまでを感じ取ってしまうからなのだろうか。でもそれこそが「あなた自身を歌いなさい」という彼女からのメッセージなのかもしれない。

Get Your Yas Yas Out / ブラインド・ボーイ・フラー

 世界最強のロックバンドの名前がマディ・ウォーターズの「ローリン・ストーン」に由来している話はとても有名だ。バンドの名前を尋ねられたブライアン・ジョーンズが、たまたま床に散らばっていたマディのレコードを手に取り、とっさにその中の収録曲を口にしたってやつだ。しかし、そのローリング・ストーンズが1970年にリリースしたライブ・アルバム「GET YOUR YAS-YAS OUT」が、ブラインド・ボーイ・フラーの曲から付けられていたことはあまり知られていない。さらに「YAS-YAS」はスラングで「お尻」である。つまり「ケツを出せ」と言う意味だったなんてことは、当時の日本の若者たちの多くは知らなかったはずだ。それでもこのアルバムに収録されている「ミッドナイト・ランブラー」のブレイク部分(5:40)では「カッチョイイ〜!」という日本人の叫び声が入っている。声の主は村八分のチャー坊だとも言われているがホントのところはどうだろう。それでもイギリスやアメリカの若者たちだけでなく、日本の若者たちもずいぶんと熱狂していたことは確かなようだ。

 さて、ストーンズよりも先に「ケツを出せ」と叫んだブラインド・ボーイ・フラーは、1908年にノース・カロライナで生まれた。ブラインドとは盲目のことだが、当時のブルースマンには他にもブラインドという名前が付いている人たちが実に多い。ブラインド・ブレイク、ブラインド・レモン・ジェファーソン、ブラインド・ウィリー・マクテル、後にレヴァランド(牧師)の称号に変わったゲイリー・デイビスもそのひとりだ。とにかく当時の黒人たちは貧しかったために、目の治療を充分に受けるだけの金がなかったのだ。そして盲目の黒人が金を得るためには、乞食か音楽や見せものをやる以外に方法は無かったようだ。

  ブラインド・ボーイ・フラーは生まれつき盲目ではなかったが、若い頃に一緒に住んでいた女が嫉妬に狂い、顔を洗う鉢にアルカリ溶液を入れたために失明して音楽で生計を立てるようになった。ギターをゲイリー・デイビスに習い、ブルースやゴスペルを街角で歌っては小銭を稼ぎ始めたという。しばらくしてレコーディングにも恵まれ100曲以上の曲を吹き込んでいる。しかし順調に見えていた矢先、彼は妻の脚を銃で撃った罪で刑務所に入ってしまう。出所後も音楽活動はできていたようだが、まもなく過度の飲酒が原因で腎臓病になり感染症を患い亡くなってしまった。33歳という若さだった。

 フラーの音楽活動期間は実質5、6年という短い間だったが、彼の音楽は街角でもホーム・パーティーでも人気だった。その要因のひとつに、彼の歌にはユーモラスというかダブルミーニングの歌が多いことがあげられている。有名なところでは「Truckin’ My Blues Away」だろう。最初の「Tr」部分を「F」に置き換えれば、すぐさまその意味が分かる。さらには「What’s That Smells Like Fish」「お前のアソコは生臭い」ってなのもある。極め付けは「Sweet Honey Hole」か。と、ここで彼の名誉のために断っておくが、こんなホウカム・ナンバーばかりを歌っていたわけでは決してない。「Step It Up and Go」のようにコード進行に対してのアプローチが革新的な楽曲は他にもかなりある。トラブルだらけの人生だった様子を見ると無茶苦茶な感じのフラーだが、音楽に対しては凄く熱心だったようだ。

 それでも彼が選んだポジションは、師匠のゲイリー・デイビスのゴスペルに対して真逆のポジションだ。牧師として生きることに抵抗があったからなのか、あるいはレコードを売りイベントやパーティーを盛り上げて歌う方が金になると思ったからなのかは分からない。ただ日本人である自分だから言えることがある。それは二人の歌詞の内容は対称的でも、どちらの音楽にも癒し効果があるということだ。歌の意味を分からずに聴いていた時にでさえ、ゲイリー・デイビスには哀しみを包み込む力を感じたし、フラーには突き抜けていくカッコよさがあった。そしてそれらが自分の抱えた悩みを軽くしてくれていた。

 改めて音楽ってすごい。国、人種、時代、何にも囚われないで救ってくれる。生きる意味を問いかけたくなる時ってのは順調にいってる時じゃない。絶望を抱えたポジションに落ちた時だ。そんな時、一瞬でも生きる意味を体感できる音楽が流れていてくれたらラッキーだ。フラー自身は他人のために歌い始めたわけではなかったかもしれないが、パーティーでハメを外しているうちに他人を元気付けることに生きる意味を見つけたのかもしれない。例えそれがくだらないだとか言われたとしても、それ以上にたくさんの人たちを笑顔にしてきたはずなのだ。フラーはやっぱりカッコイイ。

Ain’t Nobody’s Business / ベッシー・スミス

 ベッシー・スミスの半生を描いたTV映画を見た。映像も美しく、1920年代頃の衣装もとても良かった。何よりもブルースを楽しめた。しかし途中で何度か胸が苦しくなってしまい、休憩を入れながらの鑑賞だった。彼女の生涯についてはバイセクシャルだったことや、乗車中の車が事故に見舞われてしまい、黒人であるがために病院をたらい回しにされて亡くなった話なども知っていたから、ある程度の悲劇的な部分は覚悟していた。映画の中では貧しかった幼少の頃から、彼女の破天荒な部分、人種差別も当然のように描かれている。しかしミゾオチの部分が重苦しく痛むような感覚を得たのはそういった場面からではなかった。複雑な人間関係が交差する中でのやるせない気持ち、行き場のない想いに、本当に自分が体験したかのように身体が反応してしまったのだ。

 ベッシー・スミスは1894年4月15日に生まれ、1937年9月26日に43歳でこの世を去った。その間に多くのブルースを吹き込み巡業し歌った。彼女は彼女と同じ人種の救済者であり代弁者だった。強烈に強い酒を好み、プライドをかけてケンカも躊躇しなかった。男とのセックス、女との情事、家族との確執、彼女の人生はいつも危ういものだった。師匠的存在のマ・レイニーからは自分自身のことを歌わずに「お客を知ることだ」と、エンターテイナーとしてあるべき姿を教えられていたのだが、ベッシー・スミスは彼女自身に降りかかってきたブルースを最期まで歌ったのだ。

 いつしかブルースの女王とまで呼ばれた彼女の代表曲に「Ain’t Nobody’s Business」という曲がある。1923年にピアノだけを頼りに淡々と歌われている。後の1949年にジミー・ウィザースプーンがカバーしR&Bチャート1位を獲得。そこからブルースのスタンダードとなり、他にも多くのアーティストにカバーされていく。ただしベッシー・スミスが歌うバージョンは「いちいち批判されたってかまやしない」「どう言われてもしたいことをするわ」と腹をくくったフレーズを歌うヴァース部分があり、その後で本編のコーラスを繰り返していく。それにしてもこんなブルースの歌詞を見つけると、次のロック世代へ繋がる架け橋が既に架けられていたことに驚いてしまう。

 労働歌から生まれたブルースは、メッセージソングと言うよりも個人的な憂いを歌ったものだ。自分や周りを奮い立たせようとしているよりも、トラブルを笑いに置き換えたりして何とかやり過ごそうとしている。悩み、苦しみ、不満、怯え、それらの落ち込みを一瞬だけでも忘れたかったのだ。いつの日か不自由さの無い時代はやって来るのだろうか。残念ながらベッシーと同じく自分が生きている間にはやって来そうにない。その代わりに理不尽なこと、許せないこと、やるせない気持ちはまたやって来るだろう。そしてその度にミゾオチは痛くなるなのだろう。それでも好きにやることを諦めないでいたらそれでいい。

 ところで今の若い世代はどんな歌詞の歌を聞いているのだろう。真っ先に思い浮かぶのは高校生の息子が気持ち良さそうに歌っているアニメソングだ。最初は笑いをこらえながら聞いていたりもしたが、最近はそうかと感心することも少なくない。さらには香港の民主活動家、周庭さんが欅坂46の「不協和音」を拘置所内で思い浮かべてたとのニュースも流れてきた。「Ain’t Nobody’s Business」の「私の勝手よ」と「不協和音」の「抵抗と自由を」の間には隔たりもあるだろう。それでもどちらも周りに対して屈していないところは一緒だ。そこにある悩みや苦しみを抱えて生きる人の為のブルースは、今もこうして流れ続けている。