Rollin’ & Tumblin’ / マディ・ウォーターズ

 弾き語りのブルースマンに夢中になる前は、ボーカリストが弾くリズム・ギターが好きだった。歌とギターが直結したスタイルには強靭な塊があって、ガッカ、ガッカ、ガッカ、ガッカと3連符を刻む音からは悦びも湧き上がってきていた。その中でマディ・ウォーターズのギターは特別だった。リフを刻みながら呼応するスライド・ギターがメロディックでいて、人影のない夏の終わりのような何かを感じさせた。それらは同じ世代に活躍したエルモア・ジェームスやハウリン・ウルフには見つけることのない。とても不思議な感覚でもあった。

 1915年、ミシシッピー州で生まれたマッキンリー・モーガンフィールドは、泥んこになって遊ぶのが大好きだったことから、マディ・ウォーターズ(泥水)とあだ名をつけられた。ギターを弾き始めた頃のアイドルは、チャーリー・パットンやサン・ハウスたち。デルタ・ブルースの中で育った。初レコーディングは1941年。民俗音楽の研究家であるアラン・ロマックスらが、ブルース音楽を記録してほしいという国会図書館からの依頼を受けて、レコード録音機を持ってミシシッピーに来ていた時のことだ。本当はロバート・ジョンソンを探しに来ていた民俗学者たちだったが、すでにジョンソンは殺されていた。それでも彼らはプランテーションで働く農夫たちからマディ・ウォーターズの噂を聞きつけるのだった。もちろんここでの演奏は、フィールド録音と呼ばれる「The Complete Plantation Recordings」で聴くことができる。この中にはマディのインタビューも録音されており、「サン・ハウスが好きで影響を受けた」など、とても貴重な証言も残されている。

 さて、この録音で自分の歌声を初めて聴いたマディ・ウォーターズは、自身の声の良さに驚き勇気づけられ、シカゴに移住する人々の中に加わっていく。しかし当時の都市ではナット・キング・コールのような洗練されたジャジーなものが人気であり、ブルースの分野でもビッグ・ビル・ブルーンジーやタンパ・レッドと言ったシティ・ブルースが活躍していた時代であった。大都市で夢見た音楽活動のスタートは、「お前のような古いブルースは、シカゴでは誰も聴かない」とまで言われてしまうものであったのだ。

 しかし1947年、マディ・ウォーターズはチェス兄弟と出会う。彼らは後のチェス・レコードとなる会社を持っていた人物たちだ。翌年、マディは「何もかも上手くいかないぜ」と「I Can’t Be Satisfied」を吹き込みヒットさせた。マディの歌とスライド・ギターに、叩くようなベースの音だけを加えたもので、都市で流行中のモダンなサウンドではなかったのだが、その素朴さが逆に郷愁を誘い、故郷を捨ててきた黒人たちに受けとめられていったのだ。さらにマディは、酒場の喧騒に対抗するためにギターをアンプに差し込み音量を上げていく。やがてバンドを従えてチェス・レコードで開花していくのであるが、この辺の様子はチェスを題材とした映画「キャデラック・レコード」でも味わうことができるから見てほしい。

 さてさて、マディ・ウォーターズがカントリー・ブルースから決別し、50年代のエレクトリックなシカゴ・ブルースを確立していくのに必要だった曲が「Rollin’ & Tumblin’」だ。もともとマディはこの曲をバンドで演奏したいと思っていた。しかしチェス側はそれまでの成功もあり、少人数での演奏を求めてきた。その不満を持っていたマディに目をつけたのが他のレコード会社で、チェス・レコードとの契約の裏をかき、マディをギターに専念させ、他のバンド・メンバーたちに歌わせたものを発売したのだ。それがこちらのベビーフェイス・ルロイ・トリオの「Rollin’ & Tumblin’」だ。

 古くから伝わるこの曲は、ブルース特有の12小節進行よりもさらにシンプルな構造で、ワンコードを転がしていく感覚で成り立てっている。それゆえにマディのスライド・ギターが欠かせないものとなっていて、繰り返されるリフレインがとてもセクシャルだ。それに絡むブルース・ハープはリトル・ウォルターが負けじと吹きまくっている。残念ながら歌の方は男たちの騒めきが強すぎて傑作とまでは言い難いが、それでもシカゴ・ブルースの始まりは、この熱量から動かされていったのだ。

 マディの引き抜き事件後、チェス・レコードはバンド・メンバーを増やすことを認めた。それ以降の活躍は、「Rollin’ Stone」「Long Distance Call」「I’m Your Hoochie Coochie Man」「I Just Want To Make Love To You」「Mannish Boy」など、他にも多くのヒット曲が続き、物語りを綴ってくれている。しかしながら、エレクトリック・シカゴ・ブルースの扉をこじ開けたのは「Rollin’ & Tumblin’」であり、マディ・ウォーターズのスライド・ギターなのである。

Death Letter Blues / サン・ハウス

 人と距離を置く生活になって、とても長い時間が過ぎたようだ。どうにかこの暮らし方にも慣れてきたが、その反面では解放し切れない心模様が騒めきあっている。人間に限らず生物は他者と関わって暮らしてきた。切り離されてしまっては自己を保つのも難しい。さらには肉体だけでなく、自分ひとりで整理をつけられない気持ちだってあるものだ。自然や社会に生かされて生きているのだから、今は贅沢は言えないのだろうが、普通に気を使わずにコンサートに出かけたり、スポーツ観戦ができるような日々が待ち遠しい。誰かの姿に救われることだってきっとあるのだから。そうそう、先日の佐々木朗希選手の投球には痺れた。待ちに待ったプロ入り後の初めての実戦登板で、首位打者の経験を持つビシエド選手からの三振のシーンは美しく、こちらの心まで解放してくれた。東日本大震災を経験し、悲しみに暮れた災害から10年。世界中からもらった勇気や希望を伝える側になると誓ってくれていたが、その恩返し以上の投球だったと思う。何度見ても嬉しい気持ちが止まらない。ありがとう。

 さて、ブルースにだって心に寄り添ってくれる作品はたくさんある。サン・ハウスの「Death Letter Blues」もそうだ。「死」をテーマにしているから重い歌詞ではあるが、力強く美しい歌だと思う。

 1902年にミシシッピーの熱心なバプティスト信者の家庭に生まれたサン・ハウスは、子供の頃から信仰心が深く、20歳で牧師になっている。当初は説教をしながらゴスペルを歌っていて、ブルースの方はというと、罪深い悪魔の音楽として忌み嫌っていたらしい。しかしある日、ブルースマンが奏でるスライド・ギターの音に驚き魅了されてしまうのだった。身近にジェイムズ・マッコイというギターを教えてくれる友達がいたこともあって、すぐに「My Black Mama」と「説教ブルース」を覚えることもできた。こうしてブルースの世界に入った彼は、順調に音楽活動を始めていったのだが、ある酒場での演奏中に客から暴行を受け、身を守るためにその相手を射殺してしまう。そして15年の刑を宣告されてしまい囚人農場に送られてしまうのだった。

 それでも幸運の女神はサン・ハウスを見放してはいなかった。正当防衛ということもあってか、1年間で釈放されたのだ。出所後にはブルースの創始者と呼ばれるチャーリー・パットンと知り合うこともできた。そしてパットンはサン・ハウスにウィリー・ブラウンを紹介し、彼らは年齢こそ違うものの親友同士になっていく。デルタ・ブルースの重要人物たちが顔を合わせていったドラマティックでロマンティックな時期だ。ちなみに、ロバート・ジョンソンにギターを教えたのも彼らだと言われている。あのクロスロード伝説では、十字路で悪魔に魂を売り渡して驚くべき技術を身につけたと伝えられているが、サン・ハウスたちの教えがベースになっているのは確かだ。ロバート・ジョンソンの演奏には、サン・ハウス的なフレーズが残されている。 

 ところでサン・ハウスが用いるチューニングはオープンGやDが多い。代表曲「Death Letter Blues」はオープンGだ。記録映像を観ると腕全体を振り下ろし、弦を叩いたりスラップのように引っ掛けてリズムを刻んだ上で、攻撃的なスライド・ギターを合体させている。ヴォーカルも鬼気迫るインパクトで、叫びのようでもあり、祈りのようでもある。そして歌詞を見てみると、相手がどうであれ愛し続ける苦しみを歌ったものが多い。その悲しみを突き破ろうとしながら歳を重ねたブルースマンは「俺に何がしてあげられる」と、その相手を思い続けていたのかもしれない。そしてその相手は愛した女たちだけではなく、パットンや、ジョンソン、ブラウンといった、先に亡くなっていった男たちにも捧げられているようだ。

 スライド・ギターひとつで、あるいはハンド・クラップだけで歌うサン・ハウスからは激しくとも癒しの波動が溢れてくる。それを聴いているこちら側の葛藤のすべてが消えてくれるわけではないが、ほっとさせてくれたり、軽くしてくれたり、もう少し頑張ってみようかと思わせてもくれている。レクイエムとは、亡くなった人が安らかに眠れるようにと神に祈るための楽曲だそうだ。それならブルースはどうだろう。少なくとも俺自身はとても助けられている。

Death Letter/Son House

ある朝、手紙が来たんだ、なんて書いてあったと思う?
こう書いてあったんだ、急げ、急げ、お前の恋人が死んじまったぞ
その日の朝,手紙が来たんだ、なんて書いてあったと思う?
こう書いてあったんだ、急げ、急げ、あの娘が死んじまったんだぞ

それで俺はスーツケースをつかんで家を出た
着いてみると、彼女は冷たい板の上に寝かされてた
俺はスーツケースをつかんで出かけた
けどなあ、着いたときには彼女はもう冷たい板の上に寝かされてたんだ

それで俺は近づいて彼女の顔を見た
この優しい娘は最後の審判が降るまでここで寝てなきゃならないんだ
俺は近づいていって彼女の顔を見た
なあ、この娘は終わりの日までここで寝てなきゃならないんだ

俺は人生で4人の女以外誰も好きにならないと思う
おふくろ、妹、あの娘、それと妻だ
俺は人生で4人の女以外誰も好きにならないと思う
おふくろ、妹、あの娘、それと妻だけだ

いや、そんなに酷い気分じゃなかったよ、太陽が沈むまでは
俺はこの手で抱きしめる相手をなくしちまったんだ
そんなに酷い気分じゃなかった、太陽が沈むまでは
なあ、俺はこの手で抱きしめる相手をなくしちまったんだ

俺は前の晩泣いてたんだ、その前の晩も一晩中泣いてた
生活を変えなきゃいけないな、もう泣かないですむように
俺は前の晩泣いてたんだ、その前の晩も一晩中泣いてた
ああ、生活を変えなきゃいけないよな、そうすりゃもう泣かないですむよな

How Long,How Long Blues / リロイ・カー

 初めから個人的な話になってしまうが、2年ほど前から頻繁に晩酌するようになっていた。けして酒は強くもなく、体質的にも合ってもいないので呑まない時期の方が長かったのだが、恩師から連絡を受けて会食することとなり、あの方にお会いするのならばと、その1週間ほど前から呑む練習を始めたのがきっかけだった。予想通りにその夜の食事は素晴らしく、それに併せて数本のワインを空けることとなった。もしも若い方でこのブログを読んでくれている方がいたなら、酒呑みの良い先輩と巡り会えたら人生が豊かになるよと伝えておきたい。メニューの選び方、食事の仕方、それに似合う酒の選び方、会話、支払いのスマートさ。それらを併せ持った人物とする食事は、彼女とのデートとも違った至福のひと時を味わえるからだ。ビールとハイボールくらいしか呑んでいなかった俺に、ワインと日本酒の楽しみ方を教えこんでくれた人生の先輩は、高級レストランと安酒場を同じように愛していた。残念なことにコロナの影響であれからお会いできてはいないが、また楽しい夜を過ごせるようにと願い今夜もまた晩酌をするってわけだ。

 それにしてもだ、毎晩のように呑む癖がついてしまってはいるが、手が震えてしまうほどアルコール依存症などにはなっていないし、休肝日を設けることだってできている。それに比べると昔のブルースマンには酒で人生を壊してしまった人たちの話が多い。いったいどれだけの量を浴びたらそうなってしまうのかが不思議でもあった。それでもアルコール過剰摂取により、30歳という若さでこの世を去ったリロイ・カーの人生を追いかけたことでその理由も見えてきた。

 1905年、テネシー州ナッシュビルに生まれたリロイ・カーは、相棒のギタリストであるスクラッパー・ブラックウェルと組み、1928年に「How Long How Long Blues」を吹き込み大ヒットを飛ばした。彼らのブルースの特徴は、都会で暮らす人々のやるせない気持ちを代弁するかのようなメランコリックなものが多く、当時の我が身を嘆くようなクラッシク・ブルースに比べ、サウンドも歌詞も軽妙洒脱でいて、それまでのものとは違っていた。

「夕刻発の列車、出てからもうどのくらい、あの娘の列車は今どこを走っている?」と、去っていった彼女を思うリロイ・カーのなんとも言えない歌声は、それまでのカントリー・ブルースなどに見られるように、去っていった女を罵るようなものではなかった。そして彼らのほとんどの曲は、相棒のブラックウェルと彼の姉であるメイ・マーロンが詩を描いていたのだが、なんとなく日本語のロックの元祖「はっぴいえんど」の松本隆さんを思い浮かべてしまう。どちらの曲の詩情も、まったく新しい世界観であり続けているからであろうか。

 とにかくブルースの長い歴史の中でも「How Long How Long Blues」はエポックメイキングなものとして取り上げられている。12小節ではなく8小節という少しだけ軽いノリのブルースは、民謡が流れていた街に、突然シティ・ポップが鳴り出したようなもので、なんとも言えない哀愁が漂うカーのピアノと歌声は、田舎を捨て都会へと向かった黒人たちの憂愁な気分とリンクしていったのだ。ブラックウェルとの相性も、どちらも窮屈にならずに補い合えるという名コンビであり、次から次へと聴衆を惹きつけたという。ファンも多く、レコードが売れて印税の額もブルースマンとしてはかなりのものだったらしい。しかし彼らはその裏でメチャクチャな生活を送ってしまってもいたのだ。

 以前に相棒であるスクラッパー・ブラックウェルのことを取り上げたことがあるのでこちらも読んで欲しいのだが、とにかく彼らが活躍していたのは禁酒法が施行されていた頃だ。しかも彼らはブートレグと呼ばれた密造酒を扱うことにも手を染めていた。つまり、工業用アルコールや怪しげな液体が混入された粗悪な酒を大量に浴びていたのだ。そんなまともじゃない酒でリロイ・カーの肝臓は徐々に衰えていった。さらにその痛みが酷くなれば、それをまぎらわすように彼は大酒を呑み続けた。1935年の春、リロイ・カーは呼ばれていたパーティー先で急性腎炎に襲われ亡くなった。その直前に口喧嘩をしてしまっていたブラックウェルは、その場には居合わせなかったという話もある。とにかく彼の死によって名コンビは失われてしまった。やがてブラックウェルはショックのあまりに落ちぶれていってしまうのだ。

 さてさて、冒頭の話に戻ろう。もしもこの2人に酒の呑み方を教えてくれる人物がいたらどうだっただろうか。「良い酒を少しづつ頂くんだよ」と諭すように一緒に呑んでくれる先輩がいたらと考えてもしまうのだ。歴史に対して、もしもの話ほど野暮なものはないのだが、リロイ・カーが亡くなったのは30歳だ。せめて10年でも長生きできていたらと考えずにはいられない。彼らのダンディズムならば、横丁にあるような酒場の歌もたくさん聴くことができただろうに。行きたい場所にもとんと行けず、逢いたい人とも逢えない不自由なご時世だからこそ、彼らの名調子をもっと聴きたかったと思ってしまうのである。